青空》は未だ見えず




「刃霧先輩」

前日の大雨でびしょ濡れになったグラウンドは、それは大量の水気を含み土というより泥に近かった。グラウンドを使う各運動部が持ち場を整備しながら、抜かるんだ足元のそれが歩いた瞬間に飛び散りそうで、みな慎重に作業を進めている。僕たち陸上部も例外ではなかった。しかしいずれは汚れるんだろうと半ば諦め気味に渇いた砂を泥の上にかけていたとき、一人だけ分厚い雲の流れる曇り空を見上げる刃霧先輩の姿が目に入った。遠くを見つめてたまに目を細める。睨んでいるような、何かに悩んでいるような、そんな表情だ。彼は別段サボっている様子もない。

「御手洗か」
「どうしたんですか?空ばかり見て」

そう尋ねると先輩はいや、と口元に手を持っていき、何か考え込むような格好をする。

「勝算が見えないんだ」

それだけいうと彼は再び大きなスコップを手にし、ザクザクと音を立てて泥をいじりはじめる。勝算?勝算って、相手に勝てる見込みの、あの?先輩は一体何と戦っているんだろう。僕は先輩の隣で作業を続ける。刃霧先輩が掘った箇所に僕が砂をかけ、掘り返した土を他の部員が持っていく。その繰り返しだった。僕は途中何度も空を見た。曇り空と勝算。先輩の意図がまったく掴めず、自然と顔は空を睨むような表情を作る。これじゃあまるでさっきの先輩みたいだなぁと可笑しくなって僕は再び渇いた砂を泥にかけた。そういえば先輩は試合でもよくあの表情になることが多い。ふとその事に気付くと先輩を見やる。

「ん?」
「先輩は勝ちたいときにそういう表情になるんですね」

この人のことだからきっと気付いてないんだろうけど。でもそれは言わず、先輩に僕の意見を述べてみると、先輩はスコップを動かしながら少しだけ笑ってそうかと呟いた。

「そうですよきっと!それでえっと、…先輩は何に勝ちたいんですか?」
「何に?」

僕はおかしなことを聞いてしまったんだろうか。それとも立ち入ったことを尋ねてしまったんだろうか。刃霧先輩は急に作業する手を止めて僕を見つめると、さっきよりも幾分眉間に皺を刻んだ。それは入り込みすぎだ、とか勝手だろ、と返答が帰ってくるに違いないと踏んだ僕は、自分自身が生み出したこの沈黙に終止符を打つ。

「あ、すすいません!僕ちょっと立ち入ったことを聞」
「自分以外の何に勝ちたいの?」
「え、…」

「自分以外の何に勝つ必要がある?」

同じ意味合いの、けれど未だかつて誰からも耳にしたことは無い言葉が刃霧先輩から飛び交った。御手洗はおもしろいことを言うね、と付け足して深く笑うと先輩のこめかみからひっそりと汗が伝うのがわかる。それを拭う先輩はどこか無邪気でほんとうに無垢な子供のようだ。助長させるかのように泥作業が状況を煽る。彼は当たり前のようにそう言ったけど、それがどれほどとんでもないことで、どれほど大きな世界なのか僕には想像さえつかなかった。自分への勝算なんて、今まで読んだどんな文豪のどの小説にだって載っていなかった気がする。雲を見つめ、空を仰ぐ刃霧先輩。すこし、恐ろしく感じた。

「…先輩?」

今までそこに先輩の世界しかなかったような気がする。気付いたらざわついていた昇降口や正門。それをグラウンドから見つめる先輩の視線を辿ると、一つしたの女子生徒たちが数人おかしそうに帰る姿があった。普段どおりのその風景が、この学校が、なんだか急に大切なものに見えて僕まで嬉しくなる。隣に立つ先輩にも声をかけようと彼を見たら、ほんとうに、ただその一点だけをいとしく想うような表情をしていた。

「刃霧先輩?」



「御手洗、俺は自分に勝ってを守りたいんだ」



すきだと一言で要約できない気持ちがこのひとらしい。自分の後ろに今、青空が広がっていることに、先輩は気付いているのだろうか。