「陣センパーイ!こっち向いてくださーい!」
「おうよ!」


声の聞こえてきた方角に彼が振り返ってピースをしたら、一年生だろうか、女の子たちの「きゃー!」という歓声が上がった。おまけに手まで振られて気を良くした彼がとびきりの笑顔を送る。送る、というよりはごく自然な流れでやってのける。それを見た一年生が「かっこいい…!」「陣先輩がんばってくださーい!」と声援を送りながら階段を下りていった。その一連の出来事を見ていたわたしは改めて陣くんの人気を知って驚いた。すごい。わたしたち三年生の女の子の間でもそれなりに名前の出る男の子だ。後輩の一年生からも人気だったなんて。よく少女漫画や小説の世界で「学園のアイドル」とか「人気者」なんて言葉を見かけるけど、今わたしは目の前でその現場を見てしまった。それなりに陣くんを知るわたしに、いつもより疎外感を覚えさせるには充分だった。彼が前の廊下から歩いてくる。


「あ、先輩。ちわっす」
「陣くん。見てたよ。すごいね」
「え?あ、あぁ…なんでしょうね、あれ」


少し照れくさそうに頭を掻く。八重歯がのぞいた。そういう仕草が単なるお調子者とは少し違う。でも、いつもと少しだけ雰囲気が違った。


「んなことより先輩、どうっすかこれ」
「え?あ、あー眼鏡!!」
「そうなんすよー。似合う似合う?」


表情の優しさにばかり目がいくものだから付属品にまるで気付かなかった。綺麗な人差し指を黒ぶち眼鏡のふちにかけると、陣くんはにこにこと屈託なく笑う。そうするとやっぱり八重歯がのぞいてますます人懐っこい。わたしは昔から黒ぶち眼鏡の似合う男の人がとても好きだった。タイプ、という分類ではないかも知れないけど、女の子には誰だってうっとりする異性のパーツや仕草があると思う。それと同じで、男の人の着物姿やスーツ、制服姿を好きな人もいれば、眼鏡や帽子のような雑貨男子が好きな人もいる。わたしはまさに後者だった。どちらかといえばフェチに近い。腕をまくったワイシャツ姿に、人を不快にさせない程度に下げられたズボンの位置。制服の色のズボンが黒だからか、それとも彼のオレンジ頭のおかげかはわからないが、目元の黒ぶち眼鏡がとてもよく栄えた。彼の視力が悪いことは知らなかったけど、こうも端整のとれた姿形をしていれば、それは一年生も声をかけたくなるだろう。彼をまじまじと見つめる。わたしの、いわゆるメガネ系男子好きとしては陣くんに100点満点を差し上げたい。


先輩?」
「に、似合うね陣くん!ちょっとうっとりするくらい…」
「惚れそう?」


相変わらず人差し指をふちにかけたまま視線だけを右にずらして、いたずらっ子みたいな表情を浮かべる。わたしが「あはは!うん、惚れそう!」と笑うと、陣くんは中指と親指でパチンと音を鳴らしながら「やりぃ!」と言った。その大げさなリアクションにわたしはさらに笑ってしまった。普段の可愛さが眼鏡の力で少しだけインテリに見せて、それがギャップにさえ見えてしまうから不思議だった。


「でも、陣くんが視力悪いなんて知らなかったよ」


笑い終えて声をかけると、陣くんは笑顔のまま「そんなんじゃないっす」と言った。目が悪いわけじゃないのだろうか。わたしは頭にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げる。


「あれ、じゃあオシャレ用の度の入ってないやつ?」
「半分正解。オシャレ用ではねえなぁ」
「あ!じゃあ今度の文化祭で使うから!?」
「ブッブー!全然違いまーす」
「ええ…じゃあなんだろう。頭を良く見せたいとか?」
「先輩それ本気で言ってる?」


腕組みをして口をへの字に曲げる陣くん。だって本気でわからない。わたしはしばらく考えるけど、やっぱり思い浮かぶのはオシャレや気分転換くらいなものだ。わたし自身がもし眼鏡をかけることがあるなら、本当に視力が低下しているときだけど。降参の意を表して胸の前で両手を挙げた。陣くんは「ほんとにー?全然わかんねえ?」と少し呆れた口調だ。


「ごめんなさい。わかりません。教えてください」
「どうしよっかなー」
「おねがいおねがい!このとおり!」


神社で神様にお祈りするみたいに両手を強く合わせた。ちらりと左目を開けると、陣くんはきょろきょろと辺りを窺ってそっとわたしに顔を近づけて耳打ちをする。吐息のかかるその距離に少しだけ身を竦めると、陣くんはわたしだけに聞こえる声でそっと告げた。


「オレの好きな子、黒ぶちの似合う男がタイプらしいんすね」
「そ、そうなの!?」


オレの好きな子。そんな突拍子のない言葉を頭の中で繰り返しながら驚いて陣くんを見つめる。陣くんはウインクしながらそれじゃあ、とだけ言い残しすれ違って行ってしまった。好きなこのために、そのためだけに学校に黒ぶち眼鏡をかけてきた陣くん。どんな思いで眼鏡を買ったんだろう。お店に入るとき、どんな気持ちで。家に帰って鏡の前で付けたり外したりを繰り返したのだろうか。陣くんのそんな姿を想像しながら、そこまで想われる女の子がとてもうらやましく思えた。だって、あの「学園のアイドル」で「人気者」の称号を持ちえた男の子を動かす威力。きっとすごいことだ。そんな風に恋をした事のないわたしにとって、少しだけ失恋にも似た後悔が過ぎった。理由なんか聞かなければよかった、と。すると、廊下に立ち尽くすわたしの後ろから「あ、一つ訂正」と付け足して小走りでかけてくる足音が聞こえた。陣くんだった。


「な、なに?」
「先輩、もっかい耳貸して」


これ以上のことは聞きたくないと拒絶するように身体が跳ねた。陣くんはそんなわたしに一瞬だけ目を見開くけど、すぐにあっけらかんと笑って相変わらずの素振りを見せる。そっと顔を近づける陣くんにおそるおそる両目を瞑った。好奇心と後悔でぐちゃぐちゃだ。


「オレの好きな先輩、黒ぶちの似合う男がタイプらしいんすね」


陣くんは、冗談めかしてそう呟くと「じゃ、今度こそ。また」と言って階段を下りていってしまった。ぽんと叩かれた頭を抑えながら、今言われたことをじっくりと頭の中で考える。オレの好きな子。もとい、オレの好きな――聞き間違えじゃなければ、陣くんは今、わたしの名前を言った。先輩。彼の先輩である三年生で「」という名前はわたしだけだ。
しかも黒ぶち眼鏡の似合う男の子が好きな、なんてストライク過ぎる。立っているのがやっとの中、清々しい背中に思わず振り返って「冗談でしょう?」と投げかける。すると、階段を下りていくオレンジ色の頭がそっと上を振り返った。不安そうな、けれど赤く染まったわたしの顔を、陣くんはかけている眼鏡の奥から射抜くようにまっすぐと見つめる。


「冗談を言う必要があります?」


悪戯っぽく上がる口角。黒ぶち眼鏡。もしもわたしが階段から落ちたら陣くんのせいだ。









この存在を映す黒 2011/05/16