夏特有の蒸し暑さを含んだ雨がオレの前に立ちはだかる。そんな事もお構いなしに雨の中へと突っ込んで行ったわけだが、一つしまった!と思ったことがある。それはザーザー降りの雨のせいで制服がびしょ濡れになってオレの身体の自由を奪っていることだ。おかげで部活のときのような速さがでねえ。だけれど傘を差してちんたらと走っている場合でもねえんだ。くそ、雨さえなければこんな距離すぐ縮めてやるのに。制服はどんどん水を吸って重くなる。オレはそれに負けるかと加速する。一歩踏み出したとき、思い切り水溜りに嵌りしぶきが跳ねる。捲くったズボンも、スニーカーもくるぶしソックスも全てびしょびしょだ。だんだんと近くなっていく小さな背中を捕らえるのはもうすぐだろう。


「待てって!」


やっとつかまえた、前を走るの細い手首を掴む。が痛い思いをしないように、だけれどこれ以上どこかに行かないように。はオレから逃げようとして、また走り出そうとするが、掴んだ手首を引き寄せてそれを阻止した。だがは抵抗をやめない。顔はこっちに向けずに、オレの手を振り払おうとぶんぶんと自分の手を振り回したり、手首を掴むオレの手を小さいその手で引き剥がそうとする。どうしたってオレに敵わない。当然だ。こんな小さい手で、こんな小さな身体で、こんな非力な力で何ができる。それでもの抵抗は続いた。体力だって限界のはずだ。雨の中の全力走の追いかけっこだぞ?が持久走が得意だなんて話は一度も聞いたことがない。証拠に本人はオレに知られてないとでも思っているかもしれないが、はっ、はっ、という短い呼吸音がこの土砂降りの中でもオレにしっかりと届く。


…埒が明かねえ。オレはを身体ごと引き寄せて、自分の腕の中に閉じ込めた。背中と腰に回した腕でがっちりとホールドする。ひっ、という小さな悲鳴の後に、オレから離れようと手を突っぱねて胸板を強く押された。そんな力で押されたってびくともしねえよ。それに比例して、オレも更に腕に力をこめた。


「離してよう」


弱々しい声が若干良心を痛めたが、聞えない振りをして力を弱めなかった。はあ、と無意識にため息が出た。離れよう、離れようと抵抗を続けていたの動きが一瞬、止まったように思ったが、やっぱりまだ抵抗したままだ。普通大人しくしねえかな。なんで、こう負けず嫌いなんだ。だけれどそんなだって愛しい。


「何で逃げんだ?」


じめじめとした雨との抵抗が和らいできた頃、すこし語調を強めて聞いた。の肩がビクッと震えた。けれども何かを喋ろうとする気配はなかった。もう一度「何で?」と今度は柔らかく問い直すと、オレのワイシャツを赤ん坊のようにそっと掴んで「だって…」と言葉を探しながらなのかゆっくりと言った。


「陣が…陣が悪いんだよ…」


言われるとは思わなかった言葉に、思わずクエスチョンマークが浮かぶ。オレが悪い?何かにしちまったかぁ?嫌がられることでもしたのか?オレが?多少混乱した頭で「オレが、なにしたんだよ」と聞くと、また黙って言いにくいことなのか、少したった後に「………キス、したじゃんか…」と呟く。オレの胸板に顔をべたっと呼吸できんのか?ってくらいに押し付けた。髪の毛の隙間から覗く耳が真っ赤だ。きっと顔も真っ赤なんだな。


「…は?」
「陣、わたしにキスしたじゃんか!」


確かにさっき学校で、オレはにキスをした。誰もいない教室で、前触れもなく。なぜ?と理由を聞かれてもおそらく“したかったから”としか答えられないと思う。だけれどそれがいけないことなのか?はいやだったって言うのかよ。逃げ出すほど。あー!意味わかんねえよ…。さすがに“キスされていやでした”なんて言われたら、だいぶへこむ。


「嫌だったのか…」
「ち、違くて!」
「じゃあなんだよ!」
「ふぁ、ふぁ…」
「ふぁ?」
「ファーストキスだったの!」
「…は?」
「ファーストキス!」
「はあ」
「わたしは陣が初めて付き合った人だし…だからアレが初めてだったの!」


そう捲くし立てるように言い終えると、うー、と唸りながらオレの胸に更に強く顔を押し付けた。「あんなにいきなり…しかも自然とされたからびっくりしたんだよう」と拗ねるように小声で言った。にとってオレが初めて付き合った人で、ファーストキスもまだだって知ってたけど…あーそういうことか、って納得したらなんだか嬉しさがこみ上げてきて笑いが零れた。に「笑うなバカ」とワイシャツを掴んでいる手で、ワイシャツ越しに抓られたけど、今は嬉しさの方が遥かにでかくて、痛みなんて気にしなかった(でもやっぱりいてえ)


を抱きしめ直して、オレよりずっと低い位置にある耳元で「、大好きだ」って囁けばまた耳を真っ赤にして「わたしも」と言った。やっぱりはオレの世界で一番愛しくて、大切なお姫様なんだろう。空を見上げたら、じめじめした雨は止んでいて、その代わりにがにっこりと笑ったみたいなキラキラと輝く青空が覗いていた。





明けてゆく空の色
お姫様のためなら、土砂降りの雨だろうと、全力疾走だろうと関係ない