君を失うということは


世界の喪失にも


繋がるのかもしれない。


(穢れたこの手に守れるものがあって、必要悪としてくれるなら。誰にも触れさせたくないという感情の名まえ)


夏の朝がすきだった。仕事の都合上、昼夜逆転生活を強いられることは当然で日課だ。冬の暗い朝は怖くて、家路に着くまで 少し足早になるのだけど、夏が近づくとあえて遠回りをしてゆっくりと帰路を歩く。カラッとした空気。 フィルターがかったような空に入道雲が浮いている。そんな夏の朝特有のなんともいえない景色がすきだった。

「うわぁ…今日も昼は暑くなりそうだ」

人通りの少ない朝の大通りを歩きながら呟いた。蝉たちが鳴く準備を整えているようで、控えめなジジジという音が響く。 静かな街に彼らも合わせているように遠慮がちだったから、おかしくて思わず笑ってしまう。昼間は容赦なく鳴き続けるのに、 こんなときは蝉も気を使ってくれるらしい。わたしからすると、眠る時間帯にミンミン鳴かれるのは迷惑だったけど、 こんな風に見えない時間で気をすり減らしているのなら、少しくらい昼間にうるさくったっていいのかも知れない。

電車から降りてすぐのところにある24時間営業のスーパーで、必要な分の食材も買えたし、あとは本当に家に帰るだけだ。 ちなみに、遠回りをするためにわざとナマモノや冷凍食品なんかは買わない。野菜やお菓子が入った小さめのビニール袋を 片手に、ふと、牛乳が切れていなかったか頭を過ぎったけど、今更引き返すのはめんどうだった。 たとえ仕事帰りでもわざわざ遠回りをしてまで家に帰るのには、それなりの魅力と、わけがある。

「おはようございます」

ようやく見えてきた自宅マンションのすぐそばで、同じ階のおねえさんに会った。別にそこまで親しいわけでもないけど、 マンション付き合いというのだろうか、挨拶は暗黙のルールだ。軽くお辞儀をするとおねえさんもいってきます、と笑う。 朝早いんだなぁ、なんてその背中を見送ると、腕時計の針は午前5時25分を指していた。たまに会うけど、いつもこれくらいの 時間だもんな。わたしとは正反対の生活だ。朝出て定時に上がれる仕事も憧れはあるけど、やりたいことをやらせてもらっているだけ ありがたい。一人暮らしにしてはセキュリティの整ったマンションに住めるのだって、今の仕事のおかげだし。 そんなことを思いながらマンションロビーに続く入り口のドアを開けると、カツーンとヒールの音が響く。 わたしはこの静けさもたまらなくすきだった。

暗証番号を入力して中扉が開くと、目の前のエレベーターに乗る。そろそろ、夏の景色に負けないくらいの情景が 目に飛び込んでくると思うと、わくわくと同時に緊張が止まらなかった。できれば永遠に目の当たりにしていたい。

「飛影さん!」

6階を知らせたエレベーターを降りて左手を曲がると、自分の部屋のドアの前、通路のコンクリート壁にもたれかかる 飛影さんがいた。伏し目がちに何かを読んでいるようで、その手には分厚い本が乗っかっている。その姿だけで 思わず頬っぺたがほころんでしまって、引き締めなおすのが大変だった。飛影さん今日もカッコイイ…!

「待ちましたか?」
「いや、」

特に驚いた様子もなくわたしの声に気付く。無音の空間にふたりだけの声が響くのがはずかしくて、なによりリアルだった。 飛影さんがバタンと重たそうな音と共にその本を閉じると、ゆっくりと目が合う。この瞬間がいちばんきんちょうする。

「あ、…ごめんなさい!今開けますね!風邪引いちゃう」
「馬鹿にするな。そんなにやわじゃない」

かばんをあさって鍵を探すわたしに少し呆れたように呟くと、飛影さんはビニール袋をそっと取り上げた。彼は、 あまり多くは語らないのに何気ないところでやさしさが伝わってくるから不思議だった。 本当のやさしさを知っている人。わたしはありがとうとお礼を言って、かばんの内ポケットから鍵を取り出すと、 玄関を開けて飛影さんを部屋へ招く。少し汗をかく飛影さんは、毎朝何かのトレーニングが終わると わたしの家で過ごすのが日課で、大体遠回りを終えて帰ってくる頃にここへ来るのが常だった。

「お風呂沸かしてくるので、リビングでくつろいでてください」
「あぁ」

廊下(と呼ぶには短いけど…)を歩きながら洗面所兼脱衣所を指差すと、飛影さんが少しだけ振り返って頷く。 リビングへ向かうその背中をしばらく見つめていると、もうそれだけでどきどきいってしまって、気持ちが 打ちのめされるみたいだった。かっこいい…。どきどきいう心臓が、そのまま突き破って出てきそうだ。お風呂場の ドアを開けて換気をしながら、泡立てたスポンジでゴシゴシと浴槽を洗う。思えば、ちょっと、し、新婚さん、みたいで、 こういうのすてきだな、なんて。そんなことを考えると、顔がかあっと熱くなった。我ながら呆れる思考に苦笑して、 それをごまかすように力いっぱい洗い続けた。なんて勝手な想いだろう。彼には、わたしに想像もできないような世界が あるというのに。浦飯くんたちとつるんでは、泥だらけになって帰ってくることも傷だらけになって 帰ってくることもしばしばある。もちろん心配だったけど、自分のために強さを追い求めていることだけはわかっていたから、 あえて何も言わない。わたしにできることは、その傷を少しでも心休まるものに変えてあげることくらいだ。

お湯を張ってお風呂場を後にすると、リビングから5時50分を知らせるテレビの音が聞こえてきた。開けた視界に 飛影さんが映ると、彼もわたしに気付いて視線を寄越した。差し込む陽の光は、もうすっかり世界の朝を告げている。

「お待たせしました!」
「お前は入らないのか」
「わたしは後でいいです。飛影さん汗かいたままだと風邪引きますよ」
「…言ったはずだ。俺はそんなにやわじゃない。桑原じゃあるまいし」

つまらなそうに呟くその姿にくすくすとわらいながら、コーヒーメーカーに豆を落とした。きっと今頃桑原くんが くしゃみをしてるにちがいない。飛影さんが運んでくれたスーパーの袋から野菜を取り出すと、冷蔵庫やお菓子ボックスに 順々にしまっていく。なかなか立ち上がらない飛影さんだったけど、しばらくしてようやくソファーから立ち上がった彼が すこしだけこどもみたいでかわいかった。はやく汗を流さないと、たとえ飛影さんでも身体は冷えてしまうのに。

「タオルすきなの使ってくださいね」

そういって脱衣所へ向かう彼に声をかけると静かにリビングのドアが閉まった。飛影さんがお風呂に入ってる間に 洗濯機を回さなきゃ。つけたままのテレビからは天気予報を読み上げるお天気おねえさんの声が聞こえてきて、 コーヒーメーカーからは淹れたてのコーヒーの香りが広がる。しあわせな朝のじかんに思わずうっとりして、ぎゅうっと なにもかもまるごと抱きしめたくなった。こんな時間帯に帰ってくる仕事でも、このときの為なら何も惜しくはない。 飛影さんと過ごせる時間が本当に大切でうれしかったから、何気ないこのひとときの為ならなんだってがんばれるのだ。

ベランダに干してある洗濯物を取り込んで、しわにならないうちにすべてをたたむ。と、とくべつになにがどうなわけじゃないけど、 やっぱり下着がそのまま干してあるのは恥ずかしいので、彼が出てこないうちにすべてクローゼットにしまいこんだ。 部屋とリビング、台所とリビング、お手洗いとリビングを行き来して必要なものを決められた場所にセットして置いていく。 そういえば洗濯機を回すのを忘れていたことに気付くと、こんこんとノックをして脱衣所のドアを開いた。もうひとつドアを 隔てた向こうに飛影さんがいるんだと思うと、やっぱり心臓が飛び出そうだ。浴室で響いているシャワーの水音が やけに耳について仕方なかった。

「…あ、飛影さんの替えの服用意するの忘れてた!」

とりあえず洗濯機をまわし始めると、再び自室のクローゼットを思いきり開いてごそごそと洋服を探す。確か 一人暮らしをはじめたばかりの頃、カモフラージュ用に買った男物のシャツがあったはずなんだけど…。

「あったあった」

いくらマンションセキュリティが完璧とはいえ、慣れない生活に不安がないわけじゃなかった。懐かしむように それを手にして脱衣所へ戻ると、すでに浴室から出てきた飛影さんに気付きもせずドアに手をかける。

「え、わっ、ごごごめんなさ…!!」

慌てるわたしとは正反対に、至って冷静な飛影さん。ズボン、は、穿いてたからよかった…!(そういう問題じゃないけど!) 何も身に着けていない上半身に思わず顔が赤くなった。いちいち反応してしまう自分が憎くてしょうがない。

「別に今更赤面する仲でもないだろ」
「(!)そ、そうだけど…っあ、いやそうじゃなくって…!!」

ずばりと真顔で、いつもどおりの真顔でいうので、あとがつづかない。飛影さんの言葉はそのとおりなんだけども…! 洗濯機の前であたふたするわたしを尻目に、飛影さんはどうってことないみたいな顔で濡れた髪を拭いている。 ぽたぽたとたれる水が流れるように身体をなぞる。そんな姿さえ直視できなくて思わず目を逸らした。

「ひひひえいさ、これ…シャツ、着てくだ 「

沁みこむ低い声がわたしのなまえを呼ぶ。ドクンと、一度大きく心臓が跳ねるのがわかった。

「帯を巻きたい」

だから手伝え、と。そうわたしの腕を引っ張ると、すべてをそのままに自室へ連れて行かれた。コポコポと コーヒーメーカーがリビングで音を鳴らして、テレビからはニュースキャスターの声が聞こえている。






◇◆◇






「痛い、ですか?」
「痛みはない」

ベッドの上であぐらをかいて腕を突き出す飛影さんと、その前で正座をしながら包帯を巻いていく。引き締まった身体を 目の前にすこしだけ手が震えそうになったけど、彼の腕についた浅い傷の方に集中してしまって、緊張よりも 心配のほうが先立った。もちろん浅い、というのはあくまで彼の基準であって、決して痛みがないわけではない。 こうやって包帯を取り替えるたび、どこかでつけてくる傷に正直気が遠のきそうになることもあった。 元々血は苦手だし、こんな風に怪我をすることなんて身近にはないから、想像を絶する痛みよりも、これを普通と 感じるようになるまでの経緯を思うだけで心のどこかがきしきしと痛むのだ。彼は泣かないから、余計に。

「できましたよ」
「あぁ助かった」
「…あんまり無茶しないでくださいね」
「約束はできないが極力気をつける」
「もう!!…わたし、…飛影さんの手、すきなのに…」

にぎにぎと拳をつくって手慣らしすると、飛影さんはその手をじっと見つめた。大すきな彼の大きな手には、一体何が 見えるのだろう。ときどき消えそうになる不安を拭い去るようにその手に触れてみた。

「大事に、してください」
「…あぁ」

そういうとわたしの手を引き寄せてゆっくりくちびるに近づけた。そっと落とされた口付けに手が震えたけど、 それに気付いた飛影さんがぎゅっとその手を握り締める。

「女ひとり守れないようじゃ情けないにも程がある」

否定なのか肯定なのかもわからない。だからこれからもっと傷をいっぱい作ることになるのだろうか。それとも、…自惚れて いるみたいだけど、…わたしとの約束を含めてのことなのだろうか。いずれにしても、その言葉に必要以上の意味を抱きたいのは、 きっとわたしが飛影さんに特別を感じ、そして感じてもらいたいからだろう。握り締めているのはお互い手なのに、 心臓の音が聞こえて驚いた。懐かしいメロディーみたいに響く彼の声に、そっと目を閉じた。

「飛影さん」
「なんだ」
「さっき、…わたしを待ってるとき、何を読んでいたんですか?」
「エロ本」
「!!!!?」

ひ、ひえいさ、んの、くち、から、思いもしない言葉が出てきて目を見開いた。もしかしたらその瞬間、風圧ですごい 音がしたかもしれないくらいに。

「え、え…えろ…ほ、」
「嘘だバカ」

自分でついた嘘のくせに、照れたように呟くのは反則だろう。似合わない彼の冗談にきょとんとしていたら、 握っていた手をするりと離して今度は腕組みをする。よ、よく考えれば、そうだよ…すごく分厚い本だったし、 あれがもし、そ、そういう本、だった、ら、ちょっとどころじゃないびっくりだ。(しかも飛影さんだし) 首を傾げて見つめたら、少しずつ彼の顔が近づいて、これから何が起きるのかがわかって再び目を閉じる。 吐息まじりに触れたそれが、真夏の朝といっしょに溶けてしまいそうなくらい熱っぽくって、思わずくらくらした。

「ひえ、さ…」


そろそろ蝉も鳴き始めるから、邪魔される前に溶けてしまうのもいいかもしれない。

(名前変換すくなくってごめんなさい…飛影好きなさんへ!//20080529)