この病になまえがあることを知る


















目が覚めて、まず一番に映ったのは天井だった。小さなシミや傷跡を数えてみる。まるで昨日と何も変わらない。 自嘲気味に笑って、また今日が来たと軽く絶望する。こんなにも無音で空気以外感じられない朝はそんなに嫌いじゃない。 眉間によっているだろう皺をゆっくりと伸ばして、誰に告げるでもなく起きたくないと駄々をこねる。 けれど誰に告げたでもない言葉はそのまますっと朝独特な空気へと消えて、部屋に響くこともなかった。 少し空しさを感じていい加減このままではいけないと、一度ベットで伸びをしてからゆっくりと身体を起こした。 ガラスのコップに並々水を入れて、よっぽど喉が渇いていたのかゴクンゴクンと首から耳に響いている。時計を見やれば 時間は既に一日の始まりから9時間も経っていて( わたしの中では日付が変われば一日の始まりという感覚がある ) けれどわたしは昨日を繰り返さなければならないという空しさに再び悩まされるのだった。ズキッ 原因不明の病と、闘っている。



「次の方どうぞ」

担当の看護士さんは目配せのとても上手い女の人で、年齢は20代後半くらいだろうか。笑うとえくぼのできる、典型的な 可愛らしいナースさんだ。彼女の目がわたしを捉える。にこ、と優しく微笑んで、白衣の天使の代名詞のような声でわたしを 呼んだ。

「次はさんの番よ」
「はい、」

もっと話していたくなる声でそう告げられて、わたしはとても恥ずかしくなった。なんて可愛い人なんだろう。 わたしは原因不明の病のことも忘れて嬉々と主治医の部屋へ入る。いつもはツンとする薬品の匂いも、 今日はへっちゃらだ。行きつけの( 病気をこじらせるとすぐに来る )ここは、家から然程遠くない小さな病院だった。 けれど評判が評判を呼び、小さな子供からお年寄りまで連日通いに来る信頼のある場所だ。もしかしたらここに来れば 何かわかるんじゃないかと思って、主治医を前に不安と安堵感でいっぱいだった。少し、安堵感が大きいくらいで。 淡々と主治医の質問に答えた。最近変なものを口にしてはいないか、環境に変化はなかったか、寝不足、ストレス、 栄養不足、しかしこれといって当てはまるものはなく、主治医のおじいちゃん先生も首を傾げている。

「やっぱり、治りませんか?」
「うむ、原因が不明じゃからのう‥」

やはりこれは原因不明の病なのだ。そう簡単に治る見込みはないらしい。具体的な症状を聞かれ、わたしはここが ズキズキしますと胸に手を置いた。普段はあまり意識しない心臓の音がはっきり脈打っているのがわかる。

「動悸や息切れもあるか?」
「え、っと‥それはないですね」
「なんじゃ今の間は」

ケラケラとおかしそうに笑って、おじいちゃん先生はゆっくりとカルテに何かを書き込む。わたしもつられて笑った。 朝は、とても負の要素が満ちていて、ここにくるまではとても大嫌いだ。辛いとか苦しいとかこの胸の痛みとか、 わけのわからないものを感じなければいけないことが本当に。でも看護士さんはとてもすてきなひとだし、おじいちゃん先生も だいすきだった。もしかしたらこのだいすきな瞬間も失うのだろうか。漠然と思う。

「身体に異常は見つからんので、今日一日はゆっくりしなされ」

あまり気負いせんでの、そういって先生はわたしの頭をぽんぽんと2回叩いた。ありがとうございましたともう一度笑って 、部屋を出て看護士さんとも挨拶を交わす。 ズキッ ほら また。一体どうしたというのだろう。





病院からの帰り道、ついでに街へと足を運び買い物を済ます。その頃にはすっかりあの胸の痛みのことを忘れていて 、わたしは夕飯の食材を一通り買って帰ることにした。たまに歩くのはいいことだ。普段なら自転車で見向きもしない風景が あちこちに広がっている。5分もすると川と並行した静かでまっすぐな道に出て、まるで夕日とにらめっこするみたいに 歩いていると、ふと後ろから優しく肩を叩かれた。夕日に映える赤い髪、蔵馬さんだ。 ズキッ

「蔵馬さん!」
「こんにちはさん」

驚かせてすみませんと丁寧に謝られて、わたしはふるふると首を振る。そんなわたしを見て蔵馬さんは いつもの笑顔に戻って、隣りいいですかと?と尋ねてきた。 ズキッ もちろん断る理由なんか無く、 むしろわたしがお願いする方なのにと思いながらどうぞと答えた。わたしの知る彼はとても謙虚で気さくな優しい人だ。 両手にぶら下がる荷物にすぐに気付いて、当たり前のように持ってくれる。

「ご、ごめんなさい!重いでしょ」
「大丈夫ですよ。さんこそ、ここまでひとりで?」
「はい」

それだけいうと急に気恥ずかしくなって、買い物袋を持つ右手がじんわり汗ばむのがわかった。家路に帰るのだろう、 鳥たちがオレンジの中を自由に飛びまわっている。今日一日のことを聞かれ、病院に行ったこと、原因不明の病に 悩まされていること、夕飯はカレーにしようかシチューにしようか悩んでいること、そんな他愛も無いことを話すと、 さっきから蔵馬さんはうーん、と何か考えているようで、何も言わずただ隣を歩く彼に、わたしはどうしてももうひとつ 話しておきたいことがあった。 ズキッ きょうは、あの、

さん」
「は、はい!?」

急に名前を呼ばれて、明らかに声が上ずってしまう。一瞬きょとんとわたしを見つめるとすぐにまた蔵馬さんは笑って

「今日は飛影はいないんですよ」

ひえ、い

ズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキズキ

「胸、痛くなりました?」
「え、あ、はい‥!?」

苦笑するみたいに蔵馬さんが言ってのけた。わたしは、なぜわかるのだろうと彼を見やる。だってこの病は原因が不明で、 わたしを蝕み軽く絶望させるものだと思っていて、何より、お医者さんにだってわからなかった不治の病なのに。 今を照らす太陽がコンクリートに反射して、じりじりと熱を帯びている。蔵馬さんは微笑んでもう一度優しくさん、と呼んだ。








私は




  知る





その痛み







名は




『医学では解明できない病ですよ、は』


( 初めからすべてがわかれば )( 胸の痛みだけ、彼が、飛影が ここにいるみたいで )