暖かい日差しが辺りを照らし、花々がその花弁を目一杯開いて美しい姿をすれば春と言うのだろうか。 風にその身をそよがせる白い洗濯物達を眺めながらわたしは痒みに襲われる目を擦った。 生憎花粉症という体質に生まれてしまったわたしは毎年くる春をそんな美しい四季の流れで感じることはない。 この特有の痒みと今はまだ発症してはいないがやがてやってくるであろう鼻の違和感に悩まされるのだ。此処数年、 浮いた気分で春を迎えられたことがあっただろうか。いくら記憶を辿ろうと悲しいかな、そんなものは一切なかった。


「うー…かゆい…」


一休みが目的で縁側に腰を下ろしたというのに、目を襲う痒みのためにこれでは休む意味がない。 それに頼みの綱であった目薬は今さっき切れてしまったばかりだ。花粉症に成す術もなく痒みに負けて目を擦り続いていると。





不意に名前を呼ばれ、振り返る。もちろん目に当てた手はそのままに。


「あれ、飛影さん」
「こんな所でサボっていたのか」
「ちょっと、人を勝手にサボり呼ばわりしないでくださいよ」
「じゃあ何だ」
「一休みです」


見下ろしていたあの鋭い目つきが瞼を下ろした為に一瞬だけ隠れた。しかしそれは直ぐにまた現れる。 飛影さんははぁっと溜め息をついた。あんまり掻きすぎては白内障になってしまう。病院の医師にそんなことを言われたのを 思い出し、わたしは目を擦る手を止める。すると隣で飛影さんが動いた気配がして、見れば彼はいつの間にかわたしの隣に腰を下ろしていた。


「飛影さんもサボりですか」
「馬鹿言え。一休みだ」


平然とした口調できっぱりとそんなことを言い放つ。それがなんだかおかしくて、わたしはクスクスと笑った。 そしたら飛影さんに「何がおかしい」と睨まれた。ぶわっと風が吹いて、わたしが干した洗濯物が一斉に舞う。 風だけならよかったものを、それは余計なものまで運んで来てしまったようでわたしの目の痒みが再発した。 指で瞼の上を擦るけれど、それが更に痒みを煽る。次第に潤みだした視界が歪んでいくけれど、 この痒みから逃れることはできなかった。


「おい」


声と共に手を取られた。いや捕まえられたの方が正しいかもしれない。 滲む目の前がわずかに開けると、不意に飛影さんの顔が飛び込んできて思わず「わ、ぁ」なんて上擦った声を上げ 後方へと身を引くけれど、一向に飛影さんの顔との距離が開くことはない。至近距離にある飛影さんの眉間の皺が ただでさえ寄っていたはずなのに更に寄る。


「何故逃げる」
「だ、だだ、だって、飛影さん、が」
「オレがなんだ」


か、顔が、近い。至極短い言葉だというのに、それを口にすることは酷く難しい。掴まれた手が少しだけ、軋んだ気がした。


「目」
「…め?」
「あまり擦るな」


そういうと、やっと、近場にあったその整った顔が離れていった。同時に掴まれていた手も解放される。 ほっと息をついたけれど若干名残惜しいような気もして複雑になった。けれどわたしがそれを表情に出すことは決してない。 ふわりと、今度は柔らかく風が肌を撫でていった。結いきれなかった髪が一房風に呑まれて遊ばれていく。洗濯物がまた大きくそよいだ。 そんな風の中に一枚、桜の花びらが混じっていることに気がついた。偶然にもわたしの膝の上に落ちてきたそれを指先で摘む。


「桜か」


いつの間にか立ち上がっていた飛影さんがわたしの手の中の花びらを見下ろしながらそんなことをいう。


「もうお花見の時期ですねぇ」
「ほう」
「今年も浦飯くんたちとみんなで行かれるんですか?」
「さぁな。あいつらと行動を共にした覚えはない」
「もう!素直じゃないんだから!」
「そんなことより、お前は今年も行かないのか?」
「い、行けたら行きたいですけど…この調子ですから…」


えへへと笑ってみせる。とはいうものの、本当は目のことなんかほっぽってみんなとお花見をしたいという気持ちの方が 実は強かったりもする。しかしそれがわたし最大の弱点であり、行ったら行ったでこんな状態では迷惑をかけてしまうのだから仕方がない。


「そうか」


飛影さんがポツリと相槌をした。彼はどこか遠くを見つめている。


「さて、と」


手を下に突いてから、わたしは小さな掛け声と共にその場から立ち上がった。


「じゃあわたし、そろそろ戻りますね」
「…あぁ」
「飛影さんもいつまでもこんなところで油うってちゃダメですよ」
「ふん、余計な世話を焼くな」


ばつが悪そうに顔をしかめる飛影さんにくすくすと笑ってからわたしは背を向けた。


「…


しかし数歩歩いたところで後ろから呼び止める声がかかる。 振り返ると飛影さんが何やらもどかしいような、躊躇ったような、とにかく曖昧な表情を浮かべていた。 一体どうしたというのだろう。わたしは思わず首を傾げる。


「…なんですか?」
「花見、」
「え?花見?」


即座に聞き返してみたが、それと同時に何故か飛影さんは顔を背けてしまった。 そのせいで表情を此方から伺うことはできない。それにしても花見って?


「……今夜、夜桜でも見に連れて行ってやる」


それは本当に小さな小さなものだった。 飛影さんの今にも消え入ってしまいそうな声とお誘いらしき言葉に、わたしはただただ唖然とする。 風が吹いた。遠くの方で洗濯物がぱたぱたと揺れる音がした。風にのってきたもののおかげで目があの痒みに浸食されていく。 そして同時に口元も笑みで浸食されていった。そっぽを向いたままの飛影さんに、わたしはこの上ない春に日差しの中で微笑んで頷いた。







忘れゆく春の末を 2009/08/08