いつも飛影が部屋の扉を閉めた後、わたしの頬には静かに涙が流れた。



肌を突き刺すような、その冷たさで目が覚めた。ゆるりと目を開けば、一面に広がるのは初雪のように何にも染まらない白。 飛影のベッドに敷かれた感触のいい高価そうなシーツ。覚醒した耳朶を叩くのは、しとしとと昨日から振り続ける魔界の雨だ。 そろそろ魔界も梅雨入りだろうか、連日雨が続く。雨は嫌いだ。濡れるのがいやでまたここから出る気を無くす。 だだっ広いベッドに手を伸ばしても、飛影には触れられなかった。隣で眠っていたはずの飛影の姿はなかった。 もちろんその体温さえも。


「あ…れ?」


上体を起こすと空気の冷たさはなお一層感じられた。薄着で眠っていたわたしの肌は粟立っている。 ベッドのすぐ傍に置いてあった上着に腕を通す。いくらかは暖かくなった。 飛影は、どこだろう。どこへ行ってしまったのだろう。わたしの知らないうちに。 昨日の夜はこのベッドで共に眠りに付いたはずだ。飛影と呼ぶ声がやけにシン、とした広い室内に響く。 一拍置いて「なんだ」と言う声が返ってきた。姿は見えない。すると部屋に備え付けてあるバスルームから後ろ手でドアを 閉めた飛影が「やっと目覚めたか」と呟く。いつ起きたのかは知らないが、飛影は戦闘着の下だけを纏っていた。 その黒は飛影の白い肌といいバランスを保っている。


「飛影…早いね」
「下らん雑務が溜まっているからな」
「昨日もあんなに遅く帰ってきたのに?」
「オレの仕事にそんなものは関係ない」


その一言にそうだねとだけ呟くと、飛影はまだ下半身に布団をかけているわたしと目線を合わせるようにしてベッドに腰掛けた。 そして寝起きでぼさぼさのわたしの髪を梳き、眉根が寄って情けない顔をしているだろうわたしの頬に触れるだけのキスをした。 近づいた飛影からはシャンプーの匂いが香る。いつもの、飛影の匂い。 安心して、わたしは彼の首筋にぎゅうっと子供のように抱きつく。 飛影はわたしの耳元でふっと笑うと「」と呟いてわたしの背に手を回した。この温もりはわたしを安心させた。 躯さんの用意してくれた飛影の部屋は広過ぎて、わたしに孤独を与えることがある。 以前そのことを飛影に話したら「オレには好都合だ」と言われた気がする。 その後に「お前が感じる分には不快だがな」と付け足された言葉にひどく内心喜んだのを覚えている。


でも何だかんだ言ってわたしたちの間には知らないことが多い。関係を問われればお互い迷わずに恋人と答えるだろう。 しかし全てを知っているかと問われれば答えを濁してしまう。知らないのだ。全てを。 現にわたしは先ほど飛影の言った雑務が何を指しているか知らない。わたしは知りたいし、知って欲しいと思っている。 でも飛影はそれを望んではいない。「仕事は何してるの?」と聞いても「は知らなくてもいい話だ」とはぐらかされてしまった。 あれ以来飛影に何かを問いただすような事はしなかった。その他にもこの飛影の部屋で彼の帰りを待っていたら、 血みどろで帰ってきたこともある。流石に理由を聞かなければと思い、口を開いたら 「オレのものじゃない。安心しろ」といつもの表情で言った。 わたしの頭を撫でて、足早にバスルームへと駆け込んだ飛影の後姿はいつになく余裕がなかったように思う。 結局その時も真実に触れる事はなかった。


すこし、昔を思い出していた。 しばらく抱きしめた後、わたしは飛影の肩を押した。飛影はほんのすこし驚いたように目を開いて「」とその愛しい声でわたしを呼ぶ。何?と返すと、その後は何も言わず、今度は飛影がわたしを引き寄せた。 飛影は、今日どこへ行くのだろう。何故あのとき血まみれで帰ってきたのだろう。 命に関わるような、そんな仕事をしているのではないだろうか。たまに帰ってこない日がある。 今日はちゃんと帰ってきてくれるだろうか。そんな疑問がわたし中で渦巻く。後をつけてみようか。冗談だけれど本当にそう思った。


飛影は頃合いを見て「そろそろ行く」と言ってわたしから離れていった。冷たい空気がまた肌を刺す。飛影の温もりが消える。 寒い。身体も、心も。飛影はどこへ行くの。聞きたくても聞けない。今日は帰ってくる。それすらも。 何故、飛影はわたしに隠す必要があるのだろう。


「じゃあな」
「…うん」
「こんな辛気臭い部屋で一日中眠っているのはやめろ」
「わかってるって」
「躯に差し出された空間など反吐が出る」
「失礼だなあ。そんなことないよ」
「とにかく、オレにあまり心配をかけるな」


上着を羽織ながらいいな、と飛影が言った。失礼な、心配を掛けているのはそっちでしょう。 という言葉は声に出さず、喉で止めておいた。


「飛影」
「どうした?」
「…ううん、いってらっしゃい。ちゃんと、帰ってきてね」


そう呟くと、飛影は「」と朝して見せたように頬にキスをした。 本当はその服を掴んででも、行かせたくなかった。でもそれができるのは聞き分けのない子供だ。 飛影のせいで、わたしは聞き分けのある大人になってしまった。


「必ず帰る」


そうして今日も、飛影が部屋の扉を閉めた後、わたしの頬には一筋、静かに涙が流れていた。絶対帰ってきてね飛影。 わたしを残して、どこかへ行かないでね。5秒前の後姿が目に浮かぶ。雨はおそらく、まだ止まない。







どこにも繋がないまま 2009/07/06