「さんて好きなヤツいないの」

 十数年もう誰にも借りられなくなった古書を本棚から抜きながら、夏油くんが言った。
 不安定な高所での作業は脚立から落ちないようにと気が抜けない。校内の片付けをするとき、大体いつも夏油くんがわたしのペアになる。

 「いるいない以前の問題で…まったく興味ない」
 「私とさんが付き合うってなったらどう?」
 「なんで?」

 顔をあげて見下ろすように隣を見つめる。いつもとはお互いの目線が違う。何か道具を使わなくても必要なものに手が届く夏油くんは羨ましい。同じ作業をしていても、ジャージ姿でも、夏油くんは洗練された印象が崩れない。二の腕を額にあてて夏油くんが汗をぬぐう。そのときかすかに香水の香りがした。少し甘めの、ブルガリブラックだ。

 「夏油くん、香水つけてる…よね」
 「夜だけね。風呂上がりに一回」
 「それ以上フェロモン数値上げなくていいのに。もう充分なんだから」
 「汗臭いよりいいでしょ」

 10センチくらいある分厚い古書を、夏油くんは片手で楽々と引き抜いていく。

 「さすが人気者。で、なんで夏油くんとわたし?」
 「さっきの話?んー、なんとなく。私達よく一緒になるし、前世とかで繋がってたんじゃないかって」
 「どうかなあ。偶然もあるし、当たり前なこともあるし…」

 言いながら視線を埃被った古書に戻した。1年生のときから夏油くんとは学校の内外問わず会う事が多かった。委員会や学校行事で同じになったのも今回が初めてじゃない。休みの日にDVDを借りにレンタルショップへ行ったら、邦画コーナーで顔を合わせたこともあった。
 その沢山の偶然がわたしはいつも嬉しかった。今も、すごく嬉しい。

 「なんで私、と付き合ってんのかなあ…とか最近思う」

 突然話題が変わった。さんは、夏油くんが2年生の時から付き合ってる人だ。
 同じタイミングで、ばさりと古書の中身が床に散らばる。背表紙とのどの部分の製本が馬鹿になって朽ちてしまっていた。散らばったページを夏油くんは一カ所にまとめて積み重ねていく。わたしは一度脚立から降りて背伸びをした。目を瞑ってさんを思い出す。細い顎と植物の花びらみたいに大きな目。敵に回したら怖い女の子だよなあと思う。勉強もスポーツもできて、友達も多くて積極的に自分の意見を発言できる女の子。スーパーウーマンだ。

 「…それこそ前世が関係してんじゃないの?夏油くんとさん」
 「さんは、まだ誰とも付き合ってないでしょ」
 「付き合う付き合うってさ、みんな単純な契約みたいに言うよね」

 わたしはその場に腰を下ろして夏油くんが落としたページを集めるのを手伝った。本棚の横に、抜かれた紙切れの山ができあがっていく。
 汚れているからと軍手をはめていた夏油くんの腕は、筋肉と血管がきれいに浮き上がっていた。生物標本よりもずっと綺麗な生きてる夏油くん。そして、さんの彼氏な夏油くん。
 夏油くんは軽く息を吐いた後、柔らかい笑顔で言った。

 「彼女とか彼氏とか、まださんにはピンとこないってこと?」
 「そんなことないけど……」

 夏油くんとさんの付き合いなんて、わたしには関係ないことだ。視界の端で夏油くんがわたしを見ているように思えた。
 沈黙が落ちて、空気が重たくなった。ちょっと明るい声でわたしは言う。

 「彼氏より…秘密を分け合う人が欲しいかな」
 「秘密?」
 「うん。ただの秘密を分け合うんじゃなくてね。できれば、なんか知られたこと自体が恥ずかしいような秘密」

 夏油くんはよく意味がわからないらしい。少し眉を下げて困った顔で、話の続きを待っている。そうやって誰かを見つめるときの夏油くんは、少しだけ瞼が下りて目元が本当に優しくなる。

 「例えば、わたしがトイレに入ってて…えっと、ちょっと汚い話になってもいい?」
 「大歓迎」
 「大歓迎って…まあいいや。そう、例えばわたしがトイレに入ってて、下着も下ろしてんの」
 「…それって和式?いや、洋式か」

 意外と夏油くんの食いつきが深い。

 「…そこはどっちでもいいから」
 「あ、ごめん」

 夏油くんはこのときを待っていたみたいな顔で笑った。彼は乗りもいい。
 わたしは脚立の足元に置いていたカゴを引き寄せて、中に古書を両手で移していく。その作業をしながら話を続けた。

 「でね、鍵をかけわすれちゃって、誰かにバーンて開けられちゃうの。わたしも彼に見られたことは誰にも言えないし、その人もわたしのトイレ現場見ちゃったなんて誰にも言えないよね」
 「だいぶ強烈だね」
 「そう、強烈なんだよ。ずーっと2人だけの強烈な秘密。しかも恥ずかしくって忘れられない秘密。普通に考えたら、分け合いたくない秘密なんだけど、でもだからこそ、縛る力っていうか…分け合っちゃった相手との繋がりは深そうでしょ」
 「…ふうん。いいね、それ」
 「あ、わかってくれる?」
 「うん。わかる」

 夏油くんは、わたしに念を押すようにゆっくりとそう言った。



 抜き終わった古書と散らばったページを全部カゴへ移し終わってから、2人でゴミ捨て場に向かった。本をビニールテープで縛り、脚立とカゴを戻しに用具室へ向かう。
 用具室はあまり人が寄り付かない校舎の裏にぽつんとある。鍵を開けて、中の電気スイッチに触れた。

 「あれ?…つかない」

 用具室の中は真っ暗なままだ。夏油くんとわたしは顔を見合わせる。もともと校舎裏は日陰の場所なので、電気がつかなければ用具室の中は完全な暗闇だ。棚のありかさえわからない。

 「私、暗いとこ苦手」
 「じゃあわたし行くよ。脚立はそのへんでいいとして…カゴ、どの辺に置いといたらいい?」
 「えっと」

 わたしの隣で考え込む夏油くん。真剣な横顔に、思い出すのを邪魔してはいけないとわたしは黙っていた。数秒して、夏油くんが「うん」と呟く。

 「思い出した。奥の棚の、…一番上に戻さないと」
 「オッケー。じゃあ扉だけ押さえてて。わたし行ってくる」

 夏油くんからカゴを受け取る。用具室の暗闇に足を踏み入れて数歩歩いたとき。
 不意に、扉が閉まる音がした。

 「え」

 訪れた暗闇にカゴをその場に落としてしまう。どうして人の視界は闇を目の前にすると、不穏な気持ちが押し寄せるんだろう。振り返って、ドアのところへ駆け寄った。ノブをつかもうと伸ばした手が、暗闇の中で誰かに触れる。

 「…あ、夏油くん?」
 「うん」

 夏油くんに触れた手を離そうとした瞬間、掴まれて引き寄せられた。
 重たい金属のドアに、2人分の体重がぶつかる音。暗闇なので姿は見えない。


 「…これも秘密?」


 耳元で声が囁いた。震えているように聴こえた。
 ドアを後ろ手にして、扉を閉めた犯人がいる。それは夏油くんだ。さっきと同じ香水の香りが、すぐ鼻先にかおる。これも夏油くん。わたしを抱き締めている腕がある。やっぱり夏油くん。わたしの心が膨れ上がって、喉の奥から出ようとしてる。夏油くんを捕まえたがっていた。驚きより、悔しさより、安心が勝る。夏油くんもわたしと同じ気持ちでいてくれた。
 誰もいない。誰の事も考えられない。わたしが今、どうしたいかだけを行動にうつして、夏油くんに伝えてもいいと思える。
 踵を上げて背伸びをした。少しだけ夏油くんの耳元に、わたしの唇も近づけたと思う。

 「これくらい、秘密でもなんでもないよ」
 「…よく言うよ。誰とも付き合ったことないくせに」
 「夏油くんだって、秘密も何にも無いお付き合いのくせに」
 「私の気持ちに、全然気づいてなかったくせに。驚きすぎておかしくなった?」
 「全然。これくらいなら誰かに言えるよ。用具室が暗くて、ただ夏油くんにぶつかっただけって」
 「ふーん…わかった」

 鍵の閉まる金属音がした。

 「用具室の鍵、今私が持ってるんだよね。外からは誰も開けられない」
 「暗いところ苦手なんでしょ?」
 「…克服しようかなって。トイレのドア開けられるくらいのショック療法で」

 静かに夏油くんは笑っている。
 わたしはこの秘密を、どうやって大事にしようか考える。





有の侭には戻れない