愛しさは孤独を引き連れた。


寂しさはいつだって新鮮で、寂しさに慣れようとしても慣れる事はできなかった。この世が突然終わるような気がして、晴れ渡る空を眺めては膝を震わせた。恐ろしい青、恐ろしい孤独。わたしは一人だった。

町並みから外れたわたしの家に向かうまでの路、牛が一匹倒れていた。


「…弱ったから、牛飼いさんに捨てられてしまったの?」

蟻にやわらかい目をたかられた牛は、もごもごと口を動かし、蛭のように縮んだ紫の舌を出した。目から溢れた蟻が、その湿った舌にも群がりはじめた。蟻は細い手足で牛を踏む。牛は微かな抵抗すら、もう出来ない。

「そう、可哀相に…ごめんね、わたしは君を埋めてあげれる程の力はないんだ」

申し訳なさにわたしは頭を下げ、倒れた牛の脇を抜け、家路を走った。ひどい病に蝕まれたのです。私を食べてはいけませんと牛はわたしに伝えてくれた。自分ひとりが、ああして渇いた地面に置き去りにされてまで、あの牛は人間への心配を呟いていた。途方もなく胸が苦しいのも相まって、息が切れた。それでも足は止まらずに、懸命に走った。ほどなくして視界の先に現れた見知ったわが家に灯が燈っているのが見えた。それに気付き思わずはたと立ち止まる。ぜい、と上がった息と一緒に、傑、と言葉に出した。すると、今家に彼が来ているということが確信に変わり、わたしは先ほどよりも早く駆けだした。


「すぐ、る!」


扉を思いきり開くと、彼はそこにいた。背中を見せたまま顔だけ振り返って、おかえり、と優しく笑う。なかなか脱げない靴が煩わしくて、ぶんぶん足を動かして振り落とす。そのまま手をついて床に乗り出す。われながら必死すぎると思う。でも衝動は止まらない。

「……っ、おかえりなさい」

両手で傑の頬にふれて、彼の目を覗きこみながらそう言う。彼はわたしの手に自分の手を添えて、また柔らかく笑った。ただいま。彼の唇の動きにそって発せられるその声しか聞こえない。それを確かめてわたしは安堵の息をついた。その途端にからだの力が抜けて、腰から下がずるりと溶けた。

、また随分急いで帰ってきたな」

そう言って、今度は悪戯っぽく笑った。きっと、わたしが何故急いで帰ってきたかお見通しなのだろう。早く傑に会いたかった、そんな純粋な理由。恋人同士ならそれは至極当たり前で、もちろん自分がそう思ったのもその通りだ。けれども本当はもう一つ理由がある。傑がもし死んだらという怯えから、どうしても早く傑の姿が見たくて仕方がないのだ。


傑は呪術師だ。本当は彼は、自分が呪術師だという事をわたしに知られたくなかっただろう。知られたくなかったと言葉には出さないけれど、きっとそうだったのだとわたしは分かっていた。だから、どんな仕事をしているのか、どこへ向かうのか、そんな事は何一つ聞かなかった。きっと、聞いてはならないのだ。彼は自分の手が血にまみれることに、何の負い目も感じてはいないから。傑が呪術師であることが当然であると気配でわかっている。


わたしは生まれ故郷の村を焼き討ちにあって失った。
思い出すたびに瞼の裏が焼けこげる。一面の赤。一面の青。青いのは空だ、赤いのは何だ。 ……、炎と血だった。渦巻く炎の真ん中で、わたしは耳をふさいでいた。声が沢山聞こえた。死にたくない。死にたくない。死にたくない。それは焼けて炭になった、かつて顔見知りだったはずの村人たちの声。一人になったわたしに残ったのは、傑だけだった。わたしの世界は彼だけになった。そして初めて、愛しさを知った。そして愛しさは、孤独のかたちを教えてくれた。



「いつまでいられるの?」


今までは何してたの、なんて聞けなくて。いつもこうして、終わりの時を確認する。本当はずっと一緒に居たいけれど、それがどれだけ願っても叶わないことだと知っている。わたしのその問いかけに、傑はすまなそうに指先で頬を掻いた。

「明日の朝まで、…かな」

窓の外、太陽はとうに沈んだ。薄闇がわたしの頬を陰らせた。それを振り払うようにわたしはにこりと笑った。夜の間だけ。それでもわたしは途方もなく幸せなのだ。傑の手が、柔らかく背中に伸びた。わたしはされるがままに目を閉じた。のし掛かる傑の重さ。肌にふれた鼓動。ああ、大丈夫、傑はちゃんと生きてる。









宵の帳は完全に下りた。わたしは身体を起こして、散らばった洋服を再び着込む。外では星が輝いていた。いつか、星が綺麗だと傑に告げると彼は寂しそうに笑った。たしかに綺麗だけど―それに続く言葉がなかった。美しい星を美しいと思ってはならない、それが呪術師なのだろう。だって星の夜は、明るすぎる。窓から視線をもどすと、眠る傑が星明かりに浮かんで見えた。規則ただしいやすらかな寝息。寝顔に浮かぶほんの少しのあどけなさ。そんな彼を見ていると涙が浮かんできた。息が苦しい。胸の中で何かが騒いで、叫び出しそうになる。わたしは傑を起こさぬように、静かに扉をあけて闇夜に駆けだした。










夕刻の牛は、完全に息絶えていた。骸になってしまった牛、それに蟻は数を増やしてたかっていた。目はもう、無い。わたしはその前で膝をついた。わああ、と大きな泣き声が漏れた。苦しくて苦しくて、わたしは叫ぶように泣いた。すると、牛がわたしに声をかけた。大丈夫ですか、と。わたしは何度も頷いた。大丈夫、けれど途方もなく怖い。牛はますます心配そうに、わたしに声をかけてくれる。なんて優しい子なんだろう。どうしてこんなに優しい子が、死んでしまわなければいけないんだろう。


「ねえ、牛さん、わたし、死が近いものとか、死んだものの声が聞こえるの」


恋人がね、久しぶりに帰ってきたの。
彼から、彼の心の声はきこえなかったの。だから、彼はきっと、まだ生きると思う。だけどね、彼のじゃない声が沢山聞こえるの。恨んだりつらんだりする言葉。彼は一体何人の人間をあの手で殺めてきたんだろう。でもね、彼はそんな事微塵も感じさせないの。優しく笑って、と呼んで、切なくなるほど強く抱きしめてくれるの。ひとりぼっちだった、わたしを。



「……、ここのところね、わたし自分の声が聞こえるの」


 おかしいよね、わたし、まだ生きてるのに。久しぶりに傑に会えて嬉しいのに、幸せなのに。どうしてだろう、自分の声が聞こえるの。それがとても怖いの。


「わたしの声がね、言うの」


身体が震えて、寒い。涙もろくにとまらない。






「村を焼いたのは、傑なんじゃないかって」



牛が、後ろ、と悲鳴をあげた。
星明かりが遮られて視界が薄暗くなった。後を振り向いたら傑がいた。持ち上げた手に握られた鋼の切っ先で、星光が飛び散っていた。ねえ、傑どうしてそんな怖い顔してるの。





…知ってたよ、でも好きだった。


わたしの胸からそう声が聞こえたのと、背中に一点の深い衝動が走ったのは同時だった。







昏き旱/褪きせた幽 2023/10/6