付き合っている彼女のことは特段嫌いなわけじゃなかった。そりゃ一年も付き合ってたくらいだから当然だけど、なんていうか…文字通りただ「嫌いじゃない」
 時と場合によって気を利かせてくれたし、外見も中身もそれなりの学生。それなりのつきあい。特に不満もないけど満足することもない。それじゃあ私はどうして彼女へ別れを切り出したんだろう。

 そんなことを思っても、結局頭の中に浮かぶことなんて。


「じゃあこの続きを…
「はい」


 とびきりの眠気が襲う午後の数学。ちょうど思い浮かべた人物に視線を向けた途端、その名前が呼ばれた。
 。二年になって必要事項以外は話したこともなければ、一年の頃その存在を知ることもなかった女だ。
 当てられた問題は黒板の前に文字を連ねて鎮座している。大半のクラスメイトたちにはさっぱりな様子だったけどには理解できる範疇らしい。白いチョークをそっと手に持ちながら綴っていく遠慮がちな文字が音を立てて刻まれていく。心地いいその音に余計に眠気は増すのだけど、そうなれば私はきっと目を開けた次の瞬間の自分を恨むに違いなかったから、必死の思いで瞼に力を込めていた。まばたきなんかいらないと、柄にもないことを思うくらいに。


「よし正解。戻っていいぞ」
「はい」


 前列の何人か(おそらく私と同等くらいの成績)から「すげぇ」と呟く声が聞こえる。優秀な生徒の回答に教師も鼻の下を伸ばしながらご満悦している様子だった。然も自分の教え方が上手いと手応えを感じている勘違いの表情だろうか。そんな中、恥ずかしそうに小さくお辞儀をしながら席に戻るがいて、私は素直に可愛いと感じる。それは決して自分が出来るからどうとか、誰かを見下したような表情じゃない。心底照れているといった顔だ。
 頬杖をつきながら開いたノートに問題との書いた答えを書き込む。この方程式が成り立つことを理解できる私は普段ノートもあまりとらない。でもどうしてシャーペンが動いたのかは目の前の数式よりも明白な答えがあった。


「それじゃあ今日はここまで。残り15分間は自習」


 教師は黒板に綴られた自分との文字を消しながら呟いた。その声にクラスの何人かが反応して、小さくよっしゃぁと声が上がる。私は寝るかなとノートを閉じようとしたけど、ついさっきまでが解いていた問題が目に入るや否や、彼女の後姿だとか、考えるように人差し指を口元に持っていく仕草が思い返されて閉じることが出来なかった。
 教卓の前では教材を片付けて部屋を出て行く教師がいて、教室を出ると同時くらいにクラスは休み時間のような喧騒を取り戻していた。



「おっ、傑!サボりか」
「おまえらと一緒にすんなよ」



 悟や仲がいいクラスの連中に声をかけられる。このときを待ってましたといわんばかりに机をあわせて麻雀を取り出す素早さが笑えた。私の返答なんて聞こえていたかはわからなかったけど、じゃらじゃらと音を鳴らす麻雀牌が、この教室にとても不釣合いだと思った。



「え、あ、どうしたの夏油くん」


 シャーペンを持ちながら机の前に広げたノートと向き合っていたは、私に呼ばれたことに気づくと慌てて顔を上げた。その顔はさっき黒板から自分の席へと戻るときの表情とどこか似ていて、すぐに照れていることがわかった。一部ではゲームを、一部では余談を、一部では睡眠が行われる中(ちなみに硝子はずっと寝てる)、だけは真面目に言いつけを守るように自習をしていて、私は彼女のこういうところがすきだと改めて思う。


「さっきのとこ教えてくれない?」
「さっきの、…あぁ、数式ね!」
「そうそう」


 何が嬉しかったのか、パァっと顔を輝かせると喜んで!と笑う。屈託のないその顔に頬が緩むのを感じながら、私はの前の席に後ろ向きに跨った。の、この曇りのない笑顔が、いつの間にか自分の中での割合を大きくしていたことに気づいたのはつい最近のことだった。一方的な想いでさえ、と向き合うなら他の気なんてあっちゃいけないんじゃないかと思わせるほど絶大なそれ。
 シャーペン片手に教師のようにやさしく教えるの小さな手が白かった。相変わらず後ろの席で鳴り響く悟たちの麻雀牌の音を聞きながら、他人から映るこの光景が、いつか不釣合いと呼ばれなくなればいいのにと考えていた。






きみより春に近いいきものを知らない(2023/10/7)