∴ 白うさぎと赤い雪

 待つことは嫌いじゃない。廃れてしまった無人駅のホームのベンチで、わたしは両手を擦り合わせて息を吐く。お気に入りの 手袋にさえ侵食する冷たさは最早氷点下を示していた。銀世界は音を遮断し、はみ出る色を一層孤独に変えてしまう。それはまるで 深々と降り続ける雪だけを見るための空間で、ニットの帽子を耳まで被り直しながら、この状況に沿うように空を見つめた。世界には 自分独りきりなんじゃないかと錯覚する白色は、残酷で美しい。冬空からばら撒かれた雪はしばらく止みそうになかった。
 寒いなぁ、とわかってはいるものの、つい声に出して確認してしまう。軽く身震いして自分を抱きしめるように暖を取ると、力の入った 靴が鈍く雪を踏む音がした。ぎゅっとくぐもったその感触が楽しくて、思わず足元の雪を踏み直す。真っ白な雪の下からコンクリートが覗いている。水気を 含んだそこはすぐには雪は積もらなかったが、次第に足跡を覆うように白色が重なっていった。そうしてまた周りと同じように みるみる雪が降り積もっていく。
 「何やってんだ…」
 「あ、フィンクス!」
 しんと張りつめた空気に音を伝えたのは待ち人本人だった。向かいのホームとの境である線路から現れたフィンクスは訝しげに わたしを見つめた後、やれやれと俯いてしまう。一人遊びを見られて少しだけ恥ずかしかったけど、それ以上に寒さが勝っていたので 気に留めなかった。伏し目がちな彼の視線は、おそらく自身の手元を見つめているに違いない。けれど、わたしの場所からは彼の 胸元から下が確認できない。ホームと線路の高低差は130cmもあるのだから無理もなかった。わたしはいそいそと立ち上がり、雪を 踏みしめながら線路側へと歩み寄る。フィンクスより視線が幾分高いけど、すぐに彼の目の前でしゃがんだ。
 「…え、うさぎ?」
 「あぁ」
 見つめた彼の手元には、一匹の子兎が眠っていた。フィンクスがこの寒さの中で手袋をしていなかったことよりもさらに驚いて、そっと 手を伸ばし兎に触れてみてその冷たさに愕然とした。兎はもう息をしていない。
 「どうしたの?」
 「冬眠しきれなかったんじゃねェの。わかんねえけど」
 ぶっきらぼうに答えながらも、白い子兎を撫でる手は大きくて優しい。触るまでは生きているのかと思うくらい、兎も 彼の手の中で安心したように目を瞑っている。束の間の沈黙にさえ雪は容赦なく降り続け、同色の子兎の身体を覆うように 小さく積もる。フィンクスはそれを払い落としながら兎を見つめ続ける。人を殺すことをなんら躊躇わない手が、兎一匹の死を 慈しんでいる不思議な光景。骨ばった綺麗な指。でもわたしには日常だった。フィンクスの優しさは人前では溶けてしまう。
 ちょっと待っててくれと呟くと、フィンクスは兎を両手に持ったまま歩き出した。ざくざくと音を立てて進む彼の背中を 視線だけで追いかける。点々と彼の指の隙間から兎の血がぽたりぽたりと跡を残して、白い雪の上ではそれがとてもよく映えた。おそらく冬眠 しきれずに食べ物を探し、弱り切った途中で怪我でもしたのだろう。万全な装備でもこの有様だ。怪我を負い、ただでさえ衰弱していた子兎が寒さに打ち勝てるはずがない。

 「この辺でいいか」

 わたしに告げたのか子兎に告げたのか、それとも両方に向けた言葉なのかはわからない。フィンクスはレールが途切れた線路の一番奥で 立ち止まると、積もる雪を足で掻き、土の色が見えると静かにしゃがんで端に子兎を置いた。手袋をしていない手はただでさえ 冷え切っているはずなのに今まで雪を被っていた土を直に触り、構うことなく穴を掘り始める。元々数十年前まで終点として利用されていたこの駅は、レールが 途切れた奥の方はわたしとほぼ同等の背丈ほどある雑草や木々で鬱蒼としている。雪が積もり今でこそ幻想的な世界だが、春にもなれば 手入れのされていない寂びれた場所だった。

 「悪いがこれで我慢してくれ」

 ホームの端をレールに沿うように歩いて彼に近づく。フィンクスは着ていたダウンジャケットのポケットから煙草の箱を取り出すと、雪と 風に火を消されないよう器用にライターで点火する。じんわり赤く火がついて、それからすぐに足元に埋めた子兎の墓上に 添えた。案の定雪と風に火は消され、じゅっと音を立てると紫煙が空へと立ち上った。それが彼なりの弔いだった。ホームの上から手を合わせ、上って消えていった紫煙を見つめてから、すぐにフィンクスへと視線を戻した。帽子を被らない フィンクスの髪の毛にももれなく雪は積もり始め、首を振って払い落としながらダウンジャケットのフードを被る。ファーの 付いたそれはとても暖かそうで魅力的だ。レールの上の雪に道を作った赤い血は、薄いピンク色になってどんどん元の白色に塗り直されていく。
 「フィンクス」
 「ん?」
 なぜだろう、彼を抱きしめたくなった。ホームから手を伸ばすとフィンクスがこちらに歩いてくる。そうして彼の皸そうな大きな手がホームの地面に 手をかけた。彼は特に気にした様子もなく、よっと呟いて高低差130cmの壁をいとも簡単に上ってしまう。運動神経が人並み以上なのはすぐに 推し量れる。手に付いた雪を払い終えるとわたしをじっと見つめた。ダウンジャケットの下にはマウンテンパーカーを着込んでいた。
 「鼻の頭赤いぞ」
 「しょうがないよ、寒いんだから」
 ムッとしたわけではなく、抗えないことなんだよと諭すように返事をする。フィンクスはダウンジャケットの袖で手を覆うと、そのまま わたしの鼻を小突いた。子兎に触れて汚れた手を気にしてくれたんだろう。こういうところは意外に抜け目ない男だ。思わず目を瞑り、変な声を 上げてしまったが、次の瞬間には腕を引き寄せられフィンクスに抱きしめられていた。
 「……しっかし寒ィな」
 「帽子も手袋も付けてこないなんて…」
 「と待ち合わすだけなら雪なんか余裕だろと思ったんだよ」
 「でも、途中であの子に会ったのね」
 わたしの問いかけに、フィンクスが今どんな顔をしているかはわからなかった。抱き締める力がどんどん強くなる。しばらくの間を置いて、おうとだけ 彼が答えた。おそらく先程まで自分の手の中にいたあの白い子兎を思ってるに違いない。放っておくこともできたのにそれを しなかったのには、きっと何かあったのだろう。それはフィーリングかも知れないし、たまたま今日の気分だったのかもしれない。なんと 言われてもわたしはあぁフィンクスらしいなと納得できる。共感を全部腕の力に込めてフィンクスを抱き締め返した。誰もいない 立ち入り禁止の駅のホーム。わたしたちは無音の中で立ち尽くす。頭や肩に降り積もり始める雪にさえ目もくれなかった。
 「……バニーガールにでもなって、化けて出ねェかな」
 「え?」
 「バニーガール」
 「…もしかしてそれを期待して助けたの?」
 「当然だろ?知らねぇのか、異国の、鶴の恩返しっつー話を」
 「……なんかすごい脱力した…」
 でも、いつもどおりの彼で少し安心してしまうのが悔しい。かと思えば、今度がバニーガールの格好でもいいなんて馬鹿げた冗談を言うから、想像してげんなりしてしまった。この寒空の下、あんな 常夏の水着姿同然の格好を考えさせないでほしい。それだけで身震いするわたしに、フィンクスが「どうした?」とあっけらかんと 尋ねてくる。至近距離で見つめられ、フィンクスの力が緩んだ手からするりと抜け出すと、わたしはもういいとだけ告げて 駅を出た。今までよりもさらに吹雪いてきた銀世界はいよいよ人間を拒みそうで、この場に居続ければ閉じ込められてしまいそうだった。けれど、不意に 小さな階段で転びそうになったわたしを大きな手が支えてくれる。振り返ると煙草を口にくわえたフィンクスがいた。

 「…危なっかしいな、おまえは」
 「あ、ありがとう」
 「あの兎はなぁ、お前以来の一目惚れだ。光栄に思え」

 風の鳴き声が一層寒さを強めていく。上がる紫煙は子兎を弔った時よりも邪でいつもどおりだ。光栄に思えだなんてふんぞり返って、さっきまでのフィンクスは どこに消えて行ってしまったんだろう。慌てて追いかけてくると思った期待は、煙草をふかす時間と彼の口角を上げた不敵な笑みに掻き消され雪と共に溶けていった。