どす黒い感情が渦巻いても尚、透明な人が空を見つめている。


 銀色のステンレスが傾いたような情景の店内は、とても穏やかにそして優雅に時を転がせている。 名もないデザイナーが作ったというこの空間を娯楽と感じるにはまだ少し月日を有しそうだったが、 日当たりも良好、たおやかな風も心地よく吹いていて、たまに理解しがたい斜面や形状を芸術と呼んでお茶をすするには 絶好の場所であった。そもそもこの場所を見つけた時も全てが偶然の一致によるものだったと、湯気立つアールグレイの 入ったカップをそっとテーブルに置きながらは思い起こすように考えていた。ここに座っていると、上っていく湯気さえ店内のアンティークに思えるから不思議だ。

 味は絶品。それなのにこの店にあまり常連客らしい客が訪れないのは、先程話したとおり名もないデザイナーが作り上げた 外観や内装を理解するには少しの時間を有するからだろう。店にはとかく大きな窓がある。天井から床まで一面が窓。それでも慣れてくればとても心休まりそうな静けさと程よい 喧騒を携えているとは思うのだが。すると、が入店して20分が過ぎた頃、決して客にやさしくはない手押しの扉から外の光が漏れるのがわかった。 設計上、店の四分の一が大きな窓の為店内は照明を点けずとも明るい。しかしながら扉から漏れる光にが気付いたのは、今の時間に自分以外誰一人として席に着くものがいなかったからだ。 自然と目線はそちらを見据えるように構えていて、けれどわざとらしくないように本を片手に持つことも忘れない。 カツンと小気味のいい靴音を鳴らしながら入ってきたのは自分より年下に見える黒髪の、あまり背丈はない青年で、キッときつそうな目元が印象的な、 それでいて薄い肌が窓から差す光に縁取られている。 随分とまたこの店には不釣合いな人物が入ってきたなぁと呟きそうになり、は慌ててその口を噤んだ。彼の着る、漆黒のコートが扉が閉まるのと同時に風に靡く。 それはまるでたっぷりと闇を含ませているかのように笑っていた。彼は何を頼むのだろうとはメニューを思い起こした。

「コーヒー。時間差で、もうひとつ」

 音もなく現れたはずの店員の気配に気付いたのか、青年は振り向きもせず、抑揚のない声でそう答えた。それにはさすがに驚きを隠せずにいると、の中でもしかしたらものすごく嫌なやつなのかも知れないという先入観が先立った。けれど、青年は丁寧に注文を 繰り返す若い女の店員に目こそ合わせないものの、失礼しますとお辞儀をしたその瞬間小さく眉根を寄せて微笑んでいるのがわかって、の中の、誰も知ることのないだろう彼への先入観はすぐさま消え失せて、そして本当に誰にも知られることもなく淡い心地のいい気持ちが 通り過ぎていくのがわかった。時間差でもひとつコーヒーを頼む青年の声音が頭の中でリフレインする。後から誰かを迎えようとしているのか、 それとも時間が経って彼自身がもう一杯飲むのかはわからなかったが、なんとなく、は前者だろうと勝手に期待し、思い込んでいた。頬が綻ぶのが自分でもわかる。

 ボックスではなく、窓側に設置されたカウンター席でひたすらに空を眺める青年の眼差しが、もしかするとこの空間に 一番似合っていたのかも知れない。不釣合いの四文字を頭に浮かべた自分をいよいよ否定するように首を振ると、は天気のいい青空を見つめる青年に、心の中で謝罪の言葉をいくつも並べた。あんなにも全身を黒で統一しながら、彼には 曇り空ではなく青空が似合う。とても恋しそうに、流れる雲さえ魅了してしまいそうな熱い視線で。空も雲も溶け出しそうだったので、 おそらくは両者は同じ思いか、もしくはこの青空たちが青年を捉えていたかったのだろう。

「お紅茶のお替りは如何でございましょう」
「あ、はい。お願いします」

 ふいにかけられた声に微笑んで対応すると、青年がようやく気付いた、といった顔でと店員のやりとりに横を向いた。とても独特な言い回しに感じた店員の声よりも、は、今この瞬間、初めて青年と視線がかち合ったこと事実それだけで吸い寄せられるような感覚に陥って、何かを 覚悟していた。やさしげに感じたその瞳の奥には、漂白しても間に合わないほどの闇を携えている。 すぐに逸らされたが、目が合うとまったく感じられないのに、青空を見上げている横顔だけは突き刺すほど澄んでいる青年の瞳に、は今まで出会ったことのない、そしてこれからも出会うことはない種類の人間だと確信した。名前を知れたらいいのだけど、 きっと知ることもないだろうとも思った。


「お待たせいたしました。コーヒーでございます」


空が唸る。青年が自分だけを捉えていないと、不服だと嘆いている。青年はそのことをきっと知っているので、コーヒーには 何も入れることなく、俯きざま目を伏せたのもほんの一瞬、すぐにまた空を見上げ、待ち人を待っていた。時間差のコーヒーは、 もしかしたらこの空の為に。漆黒は自分だけが背負う為に、きっと。