「どうしよう…」


 呟いた言葉は響くこともなく消えていく。独特の静けさに襲われて、一層の孤独がこの状況を知らせている。今いる場所が、入り組んだこの森の何処なのかさえわからない。左右がどちらの方角なのか、来た道が前なのか後ろなのかさえわからなくて泣きそうだ。けれど、泣いてしまったら最後、歩く気力も失いそうで怖かった。
 なんとか平静を保ちたくて唇を噛み締めても、唯一足元を照らしてくれていた太陽のオレンジはどんどん小さくなって消えてしまった。森全体があっという間に闇夜に飲み込まれるのをただ見届けることしかできない。手にしたパンも完全に冷め切って、わたしは一人、ヨシュアの森を迷い続けていた。




addicted to you.




 「町を出たのが13時だったから…」

 一度立ち止まって考えてみる。
 ダンおじさんにデリバリーを依頼された後、お店に戻ってパンを作り直した。キルアくんもゴンくんも修行後のお昼には沢山食べるだろうとパンを多めに焼き直して、お店を出発したのがそれくらいの時間。この季節は日が落ち始めるのが大体いつも16時から17時の間だ。町と隣接してるこの森も、夕暮れの時間はさして変わらないだろう。けれど、鬱蒼と生える木々のせいで、暗く感じる体感時間はとても早い。おそらく、この森に入ってすでに3時間以上は経過してる。体力も、何より気力が限界だった。
 キルアくんたちは、もう町に帰ってしまっただろうか。いや、彼らじゃなくとも夜が来る前に戻って当然だ。ましてや戦いに身を置くハンターの彼らが、自ら危険な場所に長居するはずがない。朝や昼は神秘的なこの森も、夜は牙を覗かせる。特に今の時期は、冬眠前で殺気立つ動物もたくさんいるだろう。もしも出会ってしまったら…そう考えただけで恐怖に拍車がかかった。なんとかして帰らないと。…帰れるんだろうか。
 手袋をはめていても指先が凍えているのがわかった。はぁと息を吹きかけて両手をさすって暖を取る。ただパンを届けることしか頭になくて、コンパスやランプさえ持ってこなかった数時間前の無防備な自分を責める他ない。

 (大丈夫…落ち着いて)

 森の道は木々の根や岩がでこぼこと覆いかぶさって、一歩歩くのも一苦労だった。わたしは腰掛けるのにちょうど良さそうな大木の根元を見つけると、少しそこで休憩をしようと考えた。手には大きなバスケットと、そういえばダンおじさんが持たせてくれたスープがあることを思い出した。冷えた身体が温かい食べ物を欲している。目的の場所まで歩いて座るなり、わたしはすぐさまスープの入ったマグボトルを開けて一口含んだ。保温機能の付いたマグボトルはまだその温かさを残してくれていて、たったそれだけのことで泣きそうになる。温かい。美味しい。今の今まで自分自身が食べ物を手に持っている事さえ忘れていたなんて…動揺している自分に気付き胸のあたりにそっと手を置く。

 (何をやってるんだろう…)

 どうしてこうなることも予期しないで、軽い気持ちで森に来てしまったんだろう。鈍臭いわたしなら充分に考えられることだったのに。キルアくんに美味しいパンを食べてほしい。届けに行けば顔も見られる、そんな甘い考えが招いた結果だ。必需品のコンパスまで忘れてきてしまうなんて本当に猪突猛進で愚かだった。食べ物はこれだけあるんだ、とりあえず飢えに困ることはない。強く強く自分に言い聞かせて辺りを見回す。慣れたはずなのに、それでも夜を纏った森の中は真っ暗で、人を寄せ付けない。おどろおどろしい雰囲気に息を飲んだ。

 「川の音…?」

 不意に耳を澄ますと川の水が流れる音が聞こえてくる。その発見に、思わず心の声が漏れていた。ヨシュアの森には綺麗な川が流れていることさえすっかり頭から抜け落ちていた。この川はわたしたちの住む町に続いている。つまり、その川を辿れば高確率で町まで出られるだろう。途中何かに遮られていても、川の水の流れる方角さえわかれば下流の町の位置がそれとなくわかる。状況は今よりきっといいはずだ。一番は太陽の動きが見れたらそれがいいけれど、朝までこの森に一人でいられる自信がない。少しでも出来ることを済ましておこう。わたしは深呼吸を2回して、座っていた大きな木の根から立ち上がった。



********


 川の音は、まだ少し自分のいる場所から離れているように感じた。ここに留まって体力を温存した方が得策なのかも知れない。けれど、まだ動けるうちに川を見つけたい気持ちもある。そうすれば、最低限の水は確保できるだろう。森で迷う自分を掻き消したくて、必死でそんなことを考える。でももしかしたら、今日は町に帰れないかも知れない…ううん、明日も森から出られるかなんてわからない。明後日も、その次の日も…でも、だけど、もしかしたら。ぐるぐると頭の中を渦巻く邪念が心まで不安で支配していく。大丈夫、きっとわたしなら―そう思った時だった。

 「……だ、だれ?」

 おかしな掛け声だと思う。本来なら一人だと思っていたこの森で、誰なんて問いかけは不釣り合いのはずだ。けれど、どこからかわたしを射抜く鋭い視線を感じた。わたしは寒さとは違った意味の鳥肌が立たせながら、それまでよりも幾分歩を緩めた。どこから、何から見つめられているのかわからなかった。ただ一つ理解できるのは、その何かが歓迎とは程遠いものだということだ。こんな恐怖を、わたしは今まで味わったことがない。

 「…っ」

 泣きたい。町に帰りたい。キルアくんに、会いたい。
 森で迷ってしまったの。そう言って、お昼にパンを届けられなかったことを謝りたい。バカだなぁって、まだ今なら笑って話せるはずなのに。
 不意にかさりと葉の掠れる音がした。後ろ。思うと同時に振り返っていた。暗闇の向こうで荒い息遣いと低い唸り声がわたしを捉えていた。
 ずっと感じていた何かの視線。その正体は、毛を逆立ててこちらを睨む狼達だった。わたしはごくりと唾を飲み込む。もうダメかもしれない。

 「…ぁ…ごめ、なさ…」

 何かに縋るような気持ちで吐いて出たのは謝罪の言葉だった。危ない、そう全身が粟立つ。四匹の狼。そのうちの先頭の二匹がグルルと牙を剥き出し、口元からは涎が滴り落ちているのがわかった。この暗さに少しは目が慣れたんだ、そんな場違いなことを考える。もしかしたらこの森を出ることはおろか、生きて帰ることなんて出来ないのかもしれない。ふいにそんなことが過ぎった。自分の愚かさを恨みながら、自然に淘汰される最後…どうしようもなく間抜けで同情の余地もなかった。
 バスケットを持ったまま、わたしは後ろに半歩ずつ、彼らを諫めるようにゆっくりと後退する。わたしはあなたたちの敵ではないと大声で叫びたかった。けれど、そんなことをしてしまえば惨たらしい未来は目に見えていた。恐怖と、この場を何とか切り抜けたい気持ちが入り混じる。

 「おねがい…殺さな、で…すぐに…出ていく…から、…」

 言葉がわかるはずもないのに命乞いをしてしまう。闇の中で光る双眼。前足に力を踏み込んでいる。駆け出されたら一溜まりもないだろう。呼吸を殺しながら後退する途中、大きな木の根元に自分の足がぶつかるのがわかった。あ、と声に出す間もなくわたしはその場で尻もちをつく。ブーツが片方だけ脱げるてしまった。変則的な動きに狼達がさらに唸り声を上げながらじりじりとにじり寄り、距離を縮められていく。けれど、たまたま手から離れたバスケットから、焼き直したパンが数個地面に転がり落ちていた。食べ物の匂いに気を取られたのか、狼達の自然が一瞬逸れるのがわかった。

 今しかない。

 そう思うや否や、わたしは最後の賭けに出た。脱げたブーツもそのままに全力で森の中を走る。一体どこにこんな体力が余っていたんだろう。片足だけ靴下のまま不格好にその場を切り抜けようと必死だった。パンの入ったバスケットもダンおじさんの持たせてくれたマグボトルも置き去りに、気付くと自分の頬に涙が伝っているのがわかった。怖い。怖い。でも、生きて帰りたい。無我夢中で太い木の根を越え、草木をかき分ける。ガウッ!とその時初めて狼の吠える声が耳に入った。追いかけてきているのだろうか、振り向く暇なんてなかった。とにかくひたすらにあの場所から離れたかった。
 すると、下の方からザァアアと水の音が聞こえてくる。先程よりも大きな濁音。川だ。しかしながら、今立っている場所から下は急斜面で川そのものを確認できない。あっという間に訪れた闇夜も手伝って、森はさらに暗さを増し現在地を隠してしまう。ぜえぜえと肩で息をしながら一旦呼吸を整える。手足はかじかんで指先は感覚がないはずなのに、こめかみと背中に汗が伝っていく。

 ふと、数メートル手前でがさがさと何かが近寄る音がした。狼達だ―彼らに食い殺されるよりは、この斜面を降りた方が生き延びる可能性は高いかもしれない。普段なら絶対にそんな判断はしないだろう。でも、目の前の恐怖から逃れたい一心でこんなにも追い詰められてることに気付かなかった。恐怖で止まらない嗚咽と涙を拭うように、わたしは意を決して斜面に足をかける。

 キルアくん―神様に願うように、彼の名前を心の中で唱えていた。



 「雷拳」イズツシ

 わたしの腰に大きく誰かの手がまわされるのと同時だった。瞬間、バチバチッと雷光が横走りする。掬い上げられた身体に温もりを感じ、次にまばたきをするとわたしは誰かの胸の中にいた。右腕でわたしを抱き、左腕を真横に差し出し、電気のような小さな雷のようなものを発している。全ての動作が思考よりも早く、わたしはただただ驚く事しかできずにいた。
 稲妻のような光が夜の森を照らし出す。キャンキャン!と狼達の弱る声、逃げ出す足音。追い払ったのは他でもない、

 「…キルア、く…」
 「

 ごめん。そこにいたのは、わたしの名前を呼んだのは、紛れもなく心の中で呼んだ人だった。キルアくん。どうしてここに。聞きたいことも言いたいことも山ほどあった。けれど、わたしの視界はすぐに歪み、代わりに出たのは子供みたいな泣き声だった。

 「き、きるあ、く…」
 「ごめんな…怖い思いさせて」

 キルアくんの匂い。大きな猫目の瞳。暗がりでもわかるのは、彼の胸の中に抱き留められているからだろう。ぎゅっと込められた腕の力。眉根を寄せた悲痛そうな表情でわたしを見下ろしている。本当に、キルアくんだ。
 夢みたいだと何度も思った。本当は、わたしはもう死んでいて、最期の最期で神様が見せてくれている夢なんじゃないかとさえ思う。都合のよい錯覚、幻影をわたしが見ているだけなのかも知れないと。でも、左手を下ろすとキルアくんは両手でわたしをしっかりと抱き締める。この力強さが一切の迷いを全て消し去ってくれる。無事で良かった。心臓止まるかと思った。キルアくんが震えた声で耳元で繰り返す。溢れる涙を拭うこともせずにわたしはその声を聴きながら泣いていた。きっと今、ものすごく酷い顔をしているだろう。でもそんなことさえどうだってよかった。

 キルアくんが助けに来てくれた―

 その事実が頭を埋め尽くす。すぐそばには一匹の狼が横たわっていた。気付いたわたしにキルアくんが殺してないよと告げる。さっきまで命からがら逃げていた対象だったはずが、その言葉を聞いてホッとした。わたしの勝手で迷い、わたしの愚かな判断で夜の森を侵してしまった。それだけなのに本来の森の住人が命の灯を失うのはおかしいことだ。矛盾しているかもしれない。でも、キルアくんのおかげでわたしは生きながら森を汚さずに済んだのだ。
 安堵した全身からアドレナリンが引いたのか、ブーツの脱げた片足がズキズキと悲鳴を上げていた。

 「っ痛…」
 「大丈夫か!?」

 足を押さえて声を上げたわたしにキルアくんがすぐさま跪いた。片足だけブーツが無いことにキルアくんはその時初めて気付く。枯葉を踏み、枝を踏み、木々を掻き分けた足には、小さな切り傷や靴下の上からでもわかるほど血が滲んでいた。さっきまでの自分自身がどれほどまで生を守ることに夢中だったかを知られるようで、それがなぜだか申し訳なかった。キルアくんにだけは心配をかけたくなかったからだ。
 大丈夫だよ、そう小さく返すわたしに、全然大丈夫じゃねーじゃん。怒っているような口調でキルアくんが言った。跪き、俯き加減の彼の表情はわたしからは見えなかった。ごめんなさい。そう謝ると、彼は何も言わずにわたしの片足を撫でる。人肌の温もり。
 すると、痛みが震えに変わる。目の前の景色が突然霞んでいき、わたしはその場で立っていることも適わなくなった。

 「…キル………ごめ……」
 「?」

 張っていた気が緩んでいくのがわかった。前のめりに倒れるわたしに気付いたキルアくんがすぐさま腕を差し出し抱き抱える。!嗚呼、キルアくんの声がする。やっぱりこれは夢だったんだろうか。そんなこと、今は確かめる術もない。

 ごめんなさいキルアくん。

 遠退く意識の中で何度も何度も繰り返す。あなたにそんな悲しい顔をさせてしまった。あなたに謝らせるようなことをした自分がとても憎い。