『いらっしゃいま…』
 『あの宿屋の朝食、アンタが作ってんの?』
 『は、はい…そうですけど…』
 『ふーん』

 初めてのやりとりを覚えている。来客を知らせるドアベルが店内に鳴り響くより早く、彼は言った。
 見慣れないその男の子は店内に入るなりニット帽を脱いだ。「寒ィ」と呟く口調がわたしよりもいくつか年下なんだろうと知らせてくれる。この町に生まれ育ったわたしにとって、いつも見かける男の子といえば母親に手をひかれて歩くくらいの子供たちばかり。自分と同い年くらいの男の子が目の前にいることが不思議でしょうがなかった。無意識のうちに視線が彼を追ってしまう。

 『何?』
 『えっ、いや、あの…初めてお会いするので…』

 店内を物色する彼は気付いたように尋ねた。わたしはカウンターの中でしどろもどろになって答える。とはいえ、あまりに答えにもなっていない。お客さんの大抵は町に住む常連さんばかりだけど、中には宿の利用者も訪ねてくることもある。けれど、お店を訪れる時間帯にもよるけど、宿屋の利用者が直接ここのお店に来るのはとても珍しい。何より、これだけかっこいい男の子がこの町にいたら、それこそ小さなテリトリーで目立たずに暮らしていくのは難しいだろう。わたしだって知らずに暮らしていた自分に後悔すると思う。多分…ううん、絶対。
 男の子は大きな猫目で不思議そうな顔を作る。それからすぐ「やっぱ新参者ってわかる?」と言った。新参者。

 『えーと、いつも来てくれるお客さんは大体同じだから…それに』
 『それに?』
 『こ、…こんなにかっこいい男の子、もしもこの町に住んでたらみんな放っておかないと思う!とと、特にお花屋のマリアおばさんとか帽子屋のネルおばさんたちは噂話も大好きだからすぐに話が広まってると思うし…あ、あと、魚屋のテリーおじさんは若い跡継ぎが欲しいっていつも言ってて、それからベックおばさんも…』
 『ぷ……もういいよ。町の人ばっかじゃん』

 目が合わせられない。必死に私情を隠そうとすればするほど、墓穴を掘るドリルの威力が増していく。きっと彼ほどの容姿を携えた男の子は、今までにも何度も言われ慣れている言葉だ。わたしがどうこうしなくてもひょいとかわせるんだろう。すみません…と小声で謝るわたしに、男の子はポケットに手を入れたまま顔だけを右に向けた。しばらく視線を逸らしてから、少しだけ気まずそうに問いかけた。

 『アンタ名前は』
 『え?』
 『名前』
 『っ、です、…』
 『。なぁ、頼んでいい?』
 『な、なんでしょう』

 思わず後退る。それに気付いた男の子が「そんなに怯えなくてもいーじゃん」と唇を尖らせた。

 『しばらくあの宿屋に世話になる。毎日パンを頼むから、そん中に菓子パンも入れて』
 『菓子パン?』
 『そう。できればチョコ。無理でもクリーム。それでもダメならジャムでもいい』

 ポケットに突っ込んだ腕をピンと張りながら、うっとりした表情を浮かべている。できればチョコ。無理でもクリーム。それでもダメならジャムでもいい。語呂がいいそんな彼の甘党発言にわたしは盛大に笑い出す。男の子はハッと我に返って「なんだよ」と照れた様子でわたしを見つめる。かっこいいの代名詞みたいな男の子がこんなにも甘いものに気持ちを寄せているなんて、なんて素敵なギャップだろう。誰も傷つけないし傷付かない。けれど、彼が不貞腐れてしまう前にわたしは一言「ごめんなさい」と呟いて言葉を続けた。

 『お安い御用です。あなたがいる間は、菓子パンも必ず作ります。えーと…』
 『キルア。キルア=ゾルディック』
 『キルアくん』

 わたしが倣うようにくちびるを動かすと、キルアくんの目が頷く。


 『サンキュ、楽しみにしてる。美味いのよろしく』


 言いながらキルアくんがわたしの頬にちゅ、とキスを落とす。驚きのあまり反応が遅れたわたしに嬉しそうに微笑むと、それじゃあ、と手を振って出て行ってしまった。唖然としながら彼の感触が残る右頬を押さえる。甘党であることを知られるのは恥ずかしいくせに、キスはなんなくやってのけるなんて。みるみる紅潮する頬が恨めしい。熱を持つ身体から心臓が飛び出しそうだ。

 『こんなの、美味しく作らないわけないよ…』

 ストックするチョコレートやクリームが増えてしまいそうな予感と共に、わたしはその日彼を知れたことで運命が変わった。




***




 「こんにちは」
 「おおちゃん、こんにちは」

 もみの木のアーチをくぐり裏口から顔を出すと、ちょうど受付を終えた宿屋のダンおじさんと目が合った。ダンおじさんが経営する宿屋では朝食と昼食にパンを選択したお客さんがいた場合、わたしのパン屋と契約してくれているのでデリバリーのために日に何度か行き来している。焼きたてのパンを持っていくのにちょうどいい距離にあるこの施設は、ここ一ヶ月キルアくんたちが拠点にしている場所でもあった。

 「お昼のパン、持って来ました」
 「いつもすまないねえ」
 「いえ、こちらこそいつもありがとうございます!」
 「お客さんもちゃんの作るパン楽しみにしてるからね。特にこの一ヶ月は」

 ダンおじさんが悪戯にウインクする。わたしはすぐに誰のことかがわかって、吐く息の白さとは対称的なくらい頬が赤くなってしまう。
 キルアくんたちがダンおじさんの宿屋に宿泊して以来、朝かお昼のどちらかに必ずパンが注文される。それはつまり、今日までの一ヶ月間ダンおじさんにも毎日顔を合わせていることになる。それがまるでキルアくんとの関係を全て見透かされているようでなんだか恥ずかしかった。よっぽど気に入ったんだろうなぁ。ダンおじさんは顎に手を添えてしみじみ呟きながら頷いている。パンのことを言ってるんだろう。そうは思うものの気恥ずかしさを押し込めて軽く咳払いをすると、おじさんは気付いたように笑った。

 「悪い悪い。今日はさ、ヨシュアの森までデリバリーお願いしてもいいかな?」
 「ヨシュアの森に?」
 「あぁ。何でも今日は森の小川の上流で特訓らしい」

 特訓。その言葉にキルアくんとゴンくんを思い出す。17歳の男の子。その目の中に真剣な光を宿していた。わたしはバスケットの中のパンたちを見下ろした。いつもどおり宿屋で食事を済ませるものだと思っていたわたしは、ランチ用の軽食パンと例の菓子パンしか持って来ていないことに気付く。どうしよう。これでは精一杯修行に励む彼らのお腹の足しにはならないかも知れない。そう考え直した。

 「わかりました。行ってみます」
 「ありがとう。あ、よかったらこれも持って行きなさい」
 「魔法瓶?」
 「今日も寒いだろう。スープが入っているから途中で疲れたら休憩がてら飲むといい。温まるよ」
 「い、いいんですか?」
 「もちろん。安いチップで申し訳ないな」
 「そんなことないです!嬉しい。ありがとうございます!」
 「3人にもよろしくな」

 言いながらダンおじさんはやさしく手を振ってくれた。わたしは小さく会釈をして、再びもみの木のアーチをくぐる。道に出てとりあえずお店に戻ろうとマフラーを巻き直した。雲一つない空。ひんやりとした空気が張り詰めている。
 オーブンを温めてパンを焼くのは時間がかかるけど、すでに出来上がっているパンにチーズやお肉を挟むくらいなら充分お昼までに間に合うだろう。チョコや生クリームも沢山準備があるし、菓子パンもいくつか増やせると思う。
 修行に勤しむ彼の、バスケットを開けた瞬間の喜ぶ顔に思いを馳せる。それだけで自然と歩調はわくわくしていた。








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