「キルアくん、そろそろ離して…」
 「ぜってーやだ」

 わたしの言葉を聞くや否や、キルアくんの腕に力がこもる。眠ってしまったわけではなさそうだ。床に座ったまま正面から向き合うわたしの首筋に、彼は何十分も顔を埋めたままだった。キルアくんの吐息混じりの呼吸が耳を掠めるたび、わたしの心音が跳ねてきっと彼に伝わっているだろう。恥ずかしさよりも今はコルクの床に直接触れた膝がそろそろ限界に近い。少しだけ前かがみの上体を起こそうとするけど、キルアくんがそれを許してくれない。

 「キルアくん、そろそろお店を再開しなくちゃ」
 「…もうそんな時間?」
 「そうだよ。それにキルアくんだって修行に戻らないと…」
 「…憂鬱で吐きそう。あのババァ、ゴリラみてぇな怪力だし」
 「そんなこと言って、ビスケさんに怒られるよ!ゴンくんもそろそろ迎えに…」

 「キルアー!午後は川辺に集合だってー!!」

 「…ほら」
 「………」

 タイミング良くキルアくんを迎えに来たゴンくんの声が響く。キルアくんは渋々立ち上がって、開け放たれた2階の窓から顔を出した。

 「悪いなゴン、後から行くわ。先に行っててくれ」
 「わかった!遅れないようにしてよね」

 ビスケに怒られるのやだからね!そう念を押すようなゴンくんの声に、キルアくんが笑いながら「オレだって」と言った。窓からたおやかな風が流れる。二人とも本当に仲良しだなぁ。そんなことを思いながら、わたしも膝をはたいて立ち上がった。
 キルアくんとゴンくん、それから二人のお師匠様であるビスケさんがこの町にやってきて一ヶ月が経った。取り立てて自慢もないこの町に、修行を名目にハンターがやって来るなんて過去にはない。すぐに噂は広がり、彼らの宿泊する宿屋とわたしの経営するパン屋とのちょっとした繋がりのおかげで、わたしたちはあっという間に意気投合した。凛とした瞳の中に幼さを残しながら彼らはまだ17歳だと教えてくれた。わたしよりも三つも下の男の子たちが世界を旅して歩いている。そんな事実に惹かれるまで、そうは時間はかからなかった。

 「
 「わっ!…な、なんでしょうキルアくん」
 「他のこと考えてただろ」
 「えっと、その…」
 「言ってみ。他の男のことだったら容赦しないけど」
 「ちちちちがうよ!キルアくんがここに来て、一ヶ月が経つなぁって」

 いつの間にかキルアくんが目の前に立っていて、わたしの顔に影を作った。わたしより幾分背の高いキルアくんに見つめられて、わたしはしどろもどろになって答える。でも冷たい声音とは反対に、頬を撫でる彼の手は大きくて優しかった。こういう仕草ができるキルアくんにはやっぱり男の人を感じてドキドキしてしまう。揺れる銀色。見つめる猫目も大好きだった。

 「キ、キルアくん…ダメだってば」
 「もうすこし」
 「だ、だめだめ!ゴンくんたち待ってるよ!」
 「…ちぇ」

 拗ねるような素振りでわたしを再び腕の中から解放する。キルアくんは上着を羽織りながら「ちくしょう、面倒くせーな」と呟く。それがわたしにではなくこれから立ち向かう修行に向けられた言葉であることはわかっている。
 出会ってからというもの仕事や修行の合間を縫って、こうして二人の時間を作るのが日課になりつつあった。けれど、いくら会っても結果は同じ。悲しい時間が迫ってくるばかりだ。

 「も離せなんて言うし」
 「そんな…だって……」
 「だってなんだよ?」
 「…これ以上いたら、離れられなくなっちゃうよ……」

 俯いたままの声音は世界を知らないみたいに弱虫だ。わたしだって許されるならずっとキルアくんの腕に閉じ込められてしまいたい。食べ尽くされていなくなってしまいたい。それでも、いつか必ず離れなくちゃいけない。だったら早いほうがいいに決まってる。握る手の温かさを知らなければ、こんな想いをしなくていいのだと。
 わたしの顔はきっと今、窓ガラスに映った夕焼けみたいに真っ赤だ。キルアくんの顔が見れない。でも、そんな考えよりも早く、彼の手が伸びた。

 「
 「き、キルアくん!苦し…っ!」

 この温もりが癖になる。だから離して欲しいのに、キルアくんは先程よりも強い力でわたしを腕に閉じ込めた。

 「キルアくん…はぁ…っ」
 「うん」
 「修行が終わったら、…またぎゅって、して…?」
 「あぁ。いくらでも」
 「だから今は…っ、離し……」
 「無理。離さない」
 「キ、ルア、くん……っ!」

 細身の身体のどこにこんな力が残っているのか。このまま骨を折られても、わたしはきっとキルアくんを許してしまいそうだ。でも、いい加減離れなくちゃ。わたしにもキルアくんにも時間が迫っている。
 トントンとキルアくんの胸を叩く。このままじゃ幸せのまま窒息してしまう。言葉が奪われた今、伝える術が限られていて、はやくキルアくんに気付いて欲しいと願った。キルアくんは再び渋々と書かれた顔を見せながら、いじけたように込める力を緩めてくれた。はぁ、と一息吐くわたしの耳元に自分の唇を寄せながら「帰ったらマジで離さないからな」と言った。

 「う、うん。覚悟しておく…」
 「上等」
 「キルアくんも修行頑張って。いってらっしゃい」

 笑顔で見送る。バタンと閉まる扉を最後まで見つめて、わたしはようやく前掛けを身に付けた。これから午後用のパン作りが待っている。後ろ頭に三角巾を結うと、開けたままの窓から「っ!」と呼びかけるような声がした。急いで窓辺に立つと、外の日差しの中にキルアくんが眩しそうにこちらを見つめている。

 「ぜってー離さないからなーーー!!!」

 道の往来で叫ぶキルアくん。町内を散歩中のご老人や買い物袋を掲げた主婦の人、お店の前を通るみんながキルアくんを一瞥する。わたしは恥ずかしくなって、「はいはい!」と追いやるように彼を送り出してしまったけど、内心はすごく嬉しかった。キルアくんのこういうところは、まだ実直で真っ直ぐな17歳の男の子だと思う。

 「…バカ」

 小さく呟きながら彼の背中を見送る。午後も美味しいパンを作ろうと思った。








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