『………あ、悪りぃ…』

随分と情けない声が出たもんだ。頬を伝う涙を片手で乱暴に拭う。
オレ、泣いてんのか?自問自答して、そのとき初めて現実に気付いた。

こうも苦しめるのか。こうも姉貴を奪った親父の呪縛は、オレを奈落の底まで突き落すのか。
憎い。忌々しい。憎い…あの野郎、やっぱりオレの手で止めを刺すべきだった。
振り払っても振り払っても、足元を掴まれては引き摺り戻される。お前には今までの15年間がお似合いだったと 一笑に付される。鏡に映る面影だけのあの男を何度打ち砕いただろう。
まだまだ足りない。まだ足りない。まだまだ。まだだ。

オレの15年の空白は、姉貴でしか満たせないのに。



「なぁ…蔵馬」

身を寄せる場所なんてかなり限られてる。パチ屋か雀荘かゲーセン。桑原の家、もしくは無人になったばばあの寺。でも、どこも 違う。今最適な場所は、オレの足が一番知ってる。知ってるから、蔵馬もさっきから無理には問い質さない。

雨が降っていた。傘も差さずに来ちまったもんだから、ずぶ濡れのオレを見るなり蔵馬は酷く驚いていた。風呂を借りて、蔵馬が コーヒーを用意してる間に先に部屋へと上がらせてもらうと、見知った部屋のベットに思いきり倒れこんだ。蔵馬は男のくせにいい匂いがする。
そうして部屋の戸が開くなり、蔵馬だと確認することもなく名前を呼んだ。カチャンと食器のぶつかり合う音が聞こえる。

「幽助、ベットに寝るのはいいですけど、髪を乾かして下さい」
「…お前のベットいい匂いすんな」

呆れたような蔵馬のため息。湯気が立つマグをトレーごとガラステーブルに置きながら、蔵馬は答えにならないオレの返事に「幽助に 褒められても嬉しくないですけど」と付け足した。
お互いの立ち位置というものがある。桑原になら何でも言い返せるのに、蔵馬になると話は別だ。頼りにしている分頭が上がらない。なので、オレには圧倒的に持ち駒が少ない。
オレがベットから身体を起こすと、その間に蔵馬が慣れた手つきで砂糖とミルクを入れてかき混ぜた。オレはブラックのまま マグに口をつける。程よい苦さが蔵馬の淹れ加減らしいと思う。高そうな皿の上にはモンブランが乗っていた。

「貰い物だけど、よかったら」
「美味そう…ちょうど腹減ってたんだよなー」
「夕飯まだだったんですか?」

蔵馬の一言に、あぁとだけ返す。バツが悪い。夕飯どころじゃなかったんだよ。心の中で即答する。ピザでも頼みますか?そう悪気なく蔵馬が続ける。
忘れていたわけじゃ毛頭ない。でも、思い出したくなかった核心のすぐ横をスライダーで抉られた気分だった。途端に ベットに寝転がったオレに、蔵馬が幽助?と首を傾げた。

「…なぁ、蔵馬」
「はい?」
「もしもさ、…もしも」

天井を見つめたまま蔵馬に問いかける。
蔵馬は多分オレの言葉を待ちながら様子を伺ってるだろう。なんとなく視線を感じた。
自分勝手で傲慢で荒々しい。いつか暴発しそうな獣みたいな感情。蔵馬は、自分の女に抱いたことはねえのか。本当はそう 尋ねたかった。でも曖昧な歯止めが作用して、真実をオブラートに包んでしまう。必要ない。これじゃあまるでクランケだ。
頭の中に浮かんでくる逸れた言葉たちを、息を吸うことで一緒に吐き捨てた。もしも、もしもだ。


「欲しくてしかたねえもんを…自分だけの物にしてぇ時、どうする」


両腕を交差させ光を遮るように目を覆った。どうする、蔵馬なら。
問い終えると同時に外の雨音が一層強くなった。走る車の水しぶきまで聞こえてくる。
自分の言葉を繰り返し噛み締めてみる。

本当は、欲しくて仕方ないなんて表現では物足りない。
好き過ぎて愛しすぎて、たまにオレの手で殺したくなってしまう。いつも隣に、どこでも傍に置いて干渉したい。絶対に他人に触れられたくない。触れさせない。それが できないのなら、もうオレの手で殺す以外、納得できる理由が見当たらない。
支配していた沈黙が、蔵馬のマグを置く音で破られた。
それから二言分間を空けて、蔵馬が慎重に言葉を紡ぐ。

「それは無機質な物ですか?生き物?」
「生き物。正確に言えば、女」

オレの言葉に、蔵馬が少しだけたじろぐのが空気だけで分かった。
でも、オレを窘めるでもなく、否定するでもない。蔵馬はうーんと考えてから

「何でもする、かな」

そう告げた。
予想外に残酷に響いた。何でもする。言葉に順位があるなら、相当品位は低い。
でも蔵馬が使うとやけに艶かしくて、オレは顔だけを起こして蔵馬に視線を投げかけた。気付いた蔵馬が口元に 笑みを浮かべている。でもどこか困ったような表情。苦笑と表すのがぴったりだった。

「なんでも?」
「ええ。何でも。そうなるだけの気持ちは、相手にも与える代わりに」

もう一度コーヒーを口に含む。
オレはベットに置かれていたクッションを抱き枕代わりに、体勢もそのままに蔵馬に問い続ける。

「手段は」
「問わない。オレがそれだけの事をする意味を相手にわからせる」
「…すげー自信だなオイ」
「洗脳に近いかな」
「かなじゃねえ。そりゃ洗脳だ」

オレの突っ込みに、蔵馬があははと声に出して笑う。
何が怖いって、冗談みたいな軽口で本音を語る。「その本を閉じてくれ」と同じような物言いだ。仲間で良かったと心底再確認する。

「洗脳というより、ストックホルム症候群の方が適切ですね」
「すとっく…なんだって?」
「ストックホルム症候群。別名、共依存。精神医学の言葉です」
「どんなだ?」
「犯罪被害者が犯人と一時的に時間や場所を共有することで、過度の同情や好意等の特別な依存感情を抱くことを指すそうです。特に多いのは 誘拐かな」
「…へえ。おっかねえな。自分をさらった人間、好きになっちまうんだろ」
「そういうことですね。まぁ洗脳同様、被害者の判断を鈍らせる状況作りが出来てこそですけど」
「つまり蔵馬、オメーはそんなこともできるっつーことか?犯罪者呼ばわりされても?」
「必要とあらばできるんじゃないですか。本当に欲しいものを手に入れる為なら」

こう見えて元々盗賊ですし。思わず納得しかけたけど、そんなことは関係ねえ。
蔵馬には人を諭す不思議な力があると思う。いつもは透明なのに、不意に色を見せて特別を感じさせるのが上手い。もしかしたら 触れさせてくれるかも知れないと、掴めそうな気持にさせる。きっと狙われた女も、この容姿と物腰に間違いなく落ちるだろう。
でも、オレはこいつじゃない。

「もっと、他には」
「どうしたんですか幽助。何か切羽詰まった事でも?」

ここで初めて蔵馬の口から真意を問われた。
痺れを切らした様子はなかったけど、いつもとは明らかに違うオレの態度と話の内容に、ずっと気にはしていたようだ。
クッションを抱いたままベットの上であぐらをかいた。用意されたモンブランの底に敷かれた銀紙を外しながら、オレは静かに事の発端を 話し始めた。雨はいよいよ本降りになっていく。

「…テメェのもんにしたい女がいる。言った通りだ」
「それで、その人と幽助はどういう関係なんですか」
「…………」
「ひょっとして…」
「ちょっと待て。言うな。それは蔵馬の想像に任せる」

蔵馬の言いかけた言葉に被せるように呟いた。こいつはきっとわかってる。
一度だけ蔵馬も、姉貴とは顔を合わせたことがあった。あの時は確か桑原もいて、オレに姉がいることを初めて 知らされた二人は目を丸くしていた。桑原と違って蔵馬はすぐに状況を理解していたけど、オレの過剰な反応に、少なからず オレにとっての姉貴という存在を汲み取ったはずだ。顔にも言葉にも出さなかったけど、なんとなくわかる。
だから、恐らく蔵馬の頭にはの顔が浮かんでるだろう。本当は、他人の中に映る姉貴の姿にさえ嫉妬を覚えるけど、今ばかりは仕方がない。脳みそを潰すことも、記憶に 入り込んで操作することもオレにはできない。そんな力があるなら、オレは全力を注いで他人が持つ姉貴の記憶集めに没頭するだろう。
まぁ、蔵馬なら信用はできるが。

「…そうですか。それでその人に、幽助は具体的にどうしたいんですか?」
「どうしたい?」
「ええ。どうにかなりたいから、その答えを聞きに来たんでしょう、オレに」

蔵馬が真っ直ぐにオレを捉えて呟く。どうにかなりたい。言葉の意味を繰り返す。
銀色のフォークでモンブランをすくうと、三本のフォークの先からうねる様にクリームがはみ出した。蔵馬に事情を話す傍ら、頭の中では モンブランの美味さと、さっきまでの姉貴とのやりとりとがぐちゃぐちゃに駆け巡っていく。
オレはどうなりたいんだ。姉貴と…と。どうしたい?てっぺんの栗を見つめて考える。

「…繋がりてえ。もっと」
「幽助」

自然と口から出た言葉にハッとした。
蔵馬もさすがに目を見開いていた。繋がればいい。それなのにそうできない理由をわかってるからだろう。
オレたちは元々繋がれている。でも、それ以上繋がれない大きな隔たりがある。

あの後、煙草を買いに行くと言って家を出た。オレを見つめて立ち尽くす姉貴を背中で感じた。
玄関の扉が閉まるなり、大きな声でオレの名を呼ぶ姉貴の声が聞こえたけど、立ち止まって戻ることもできなかった。

そうして今、オレは蔵馬に助言を求めてここにいる。
いや違う。ただ助言を求めて蔵馬の家に来たわけじゃない。
オレはオレのする行動を、例えそれが自分本位だろうと肯定して共感されたいだけだ。
その相手が蔵馬だった。こいつなら絶対にわかり得る部分があるはずだと、オレの本能が告げている。オレがこれから しようとしていることを、蔵馬なら理解してくれるだろうと踏んでだ。
ずるくていい。でも、傷の舐め合いなんかじゃない。

「独り占めして、離れられなくしたい。繋ぎ止めて一生隣に置いておきたい」
「…幽助、きみは」
「死んでも、一生」

置いておきたい。言い終えると同時に、ボタボタと服が濡れる。いよいよ涙腺が壊れたのかもしれない。今日はよく涙が出やがる。蔵馬の前で泣くなんてみっともない男だと内心で自嘲する。
でも、そんなことどうでもいい。

「憎くてたまんねえよ…この距離が…」

好きな女が、そのへんのヤツならよかった。
好きになったのが姉なんて存在じゃなくて、身体を繋げても心を虐げても、バカップルの 一言で片が付く他人同士なら加減なんかしないでよかったのに。
でもそれじゃあダメなことはオレが一番わかってるはずだ。姉貴の存在を生まれた時から感じて生きてきた。オレはもう、知るべくして 知ったんだ。他の女じゃこんなに愛せない。殺したいとも思わない。夢中になれない。
いつ暴れ出すかもわからない気持ちを飼い殺してでも、姉貴と、と生きていく。

だからその為に、繋ぎ止めておける鎖が欲しい。








next soon.