小さい頃から生涯の伴侶を決められていた。息をするように、わたしも彼もそれが当然だと思って生きてきた。だから不満はない。決められたレールの上を歩くのは嫌だなんて、敷きたいレールがないわたしにとってはとんでもない台詞だ。両親は悲しむし、隣を歩く彼も少しはリアクションをするかも知れない。 でも、不満はなくとも不安はある。例えばそれは大切に育てている花にアブラムシがつかなければいいと思うことに似ている。隣を歩く彼がリアクションをせざるを得ないくらいの何かが起こればいいのにと、物騒よりは小さな自己愛に満ちた感情が渦巻いていた。 「ねえイルミ、見て見て」 「うん」 「このピアスかわいい」 「そうだね。じゃあオレ仕事だから」 「あ…」 またあとでね。そう言って表情一つ変えずにイルミが部屋を出る。バタンと無情に響くドアを呆然と見つめていると、ハッと我に返って次の瞬間、考えるよりも先に読んでいた雑誌を投げつけていた。この際クッションも。それなら使用済みの木箱だって。さすがに木箱を投げたとき、狙いどころが外れて壁に当たってしまった。バコッと大きな音を立てる。わたしはとても惨めだった。物に当たるなんて最低だ。イルミにぶつけたかったわけでもない。それでも、この言いようのない気持ちを紛らわせる方法が他に思いつかなかった。 「もう…イルミのばか…」 何が婚約者だ。何が暗殺一家の長男だ。恋人兼婚約者の話よりも仕事を優先するなんて!普段ならそれが当然と思えるけど、でもたまにはわたしを優先してほしいときもある。構ってほしいときもある。一人が楽しくて雑誌を開いていたわけじゃない。イルミと同じ空間にいるから楽しいだけなのに。イルミはいつもわたしの余裕を攫ってしまう。何より、幼なじみで婚約者のわたしをこんな気持ちにする男が大好きなんて、そんな自分がいちばん恨めしかった。 寝転がっていたソファーから立ち上がり、投げつけた雑誌、クッション、木箱を順に拾い上げた。抱きしめて心の中で謝罪する。ぶつけてしまった扉と壁にも両手を合わせて謝った。別に誰が見てるわけでもない。八つ当たることしかできない自分の弱さを少しでも払拭するためだ。 再び雑誌を読み直そうとしたそのとき、タイミングよくノックが3回鳴った。扉の向こうに誰かがいる。 「…?」 「あ、ミルキ?」 「さっきなんか暴れてなかった?」 そう呟いたミルキに部屋の扉を開けた。相変わらずふくよかな体型の彼はフーフーと荒い呼吸を繰り返している。その両手には右にミルキ自身の、左にはわたしのマグカップがあった。カップからは湯気が立ち上っている。 「これ、はちみつミルクティー。好きだろ」 「ありがとうミルキ。うるさくしてごめん…」 「イル兄と喧嘩でもしたの?」 「べ、別に喧嘩というほどじゃないけど…」 「ふーん。ならいいけど。オレが"アイドル戦士☆プリンキュアー"見てるときは静かにしろよな」 「う、うん。ごめんね!ミルクティーありがとう」 お礼を告げると、照れながらそっぽを向いてミルキは自分の部屋に戻っていった。大きな丸い背中にもう一度ありがとうと呟く。扉を閉めてわたしは再び一人になった。たったさっきまでイルミが一緒にいた部屋。わたしひとりだとこんなにも広く感じる。 ミルキの淹れてくれたはちみつミルクティーを一口含む。あったかくて美味しい。さすがは食へのこだわりを持つ未来の義弟だ。足りない何かが少しだけ満たされた気がした。そう思ったら、なぜだか涙が溢れてくる。 マグカップをソファーのサイドテーブルに置く。わたしは溜め息をひとつ吐いて自分自身の小ささに嫌気が差しながら、気付けばそのまま眠ってしまった。 *** 「―」 「んむ……」 「」 「………イル?」 少しだけ身体を揺すられる感覚を覚える。寝ぼけ眼の視界に見慣れた人物がゆっくりと浮かび上がる。オレンジ色の室内灯でぼんやりと映るのは、わたしの顔を覗き込むイルミだった。驚いて上半身を起こすと、彼はソファーの目の前で、まるで王子様のように片膝を立てている。 夢の中にもイルミが出てきた気がした。わたしが何か喚き散らして、イルミがどこかへ行ってしまう悲しい夢だったような…。そんなことを考えて、わたしは泣きそうになるのを堪える。気付かれないよう目を擦る振りをしながらそっと涙を拭った。 「い、イルごめん。わたしすっかり寝ちゃってて…」 「うん。見てたから知ってる」 「お仕事終わったの?今日はずいぶん早か…」 「その目」 「え?」 ぐいとイルミがわたしの腕を掴んだ。じっと見つめる強い視線に思わず目を見開いた。このままイルミの漆黒の瞳に吸い込まれてしまいそうだ。真っ暗な闇。嘘をついているわけじゃないのに居ても立ってもいられなくなったわたしは静かに俯く。すると突然力強い感触に襲われて、気付くとイルミの腕の中に閉じ込められていた。 「オレがいない間に誰かに泣かされたの?」 それは抱きしめる強さと比例した声音だった。第三者から見れば普段のトーンと変わらないかもしれない。でも、わたしだけにはわかる。イルミは今、憤りを感じているんだろう。否定の意味を込めてフルフルと首を振るのが精一杯だった。抑えていた感情が、涙が、つうっと頬を伝う。 「さっき…ミ、ミルキがね…」そこまで言いかけると、突然イルミが抱きしめる力を弱めた。イルミ?と問いかけるよりも早く無言で部屋を出て行く。すると、廊下から唐突に爆音が鳴り響いた。驚きのあまり声が出ない。ふらつく足元になんとか力を込めて部屋を出ると、ドガァアアン!バゴォオオオン!とお構いなしに爆音が鼓膜を劈いた。 「イ、イル!何やって…」 「え?何って…ミルキに泣かされたんじゃないの」 土煙の舞うその部屋はミルキの部屋だった。覗き込むとミルキの首を両手で掴んで身体ごと持ち上げるイルミの姿がある。あの大きな身体をいとも簡単に持ち上げる体力が、細身のイルミのどこにあるんだろう。…いや、今はそれどころじゃない。地面に足が付かずバタバタともがくミルキ。わたしは急いで仲裁に入った。 「イルミ!わわ、わたしミルキに何かされたわけじゃないよ!!ミルキはわたしに紅茶を淹れて来てくれて…」 「あぁなんだ、そうなの?」 「ぐ、苦じいぃぃ…い、イル兄っ、手、離し…っ」 「そうだよ!!だだだから、は、早く離してあげて…」 顔だけをわたしに向けていたイルミがミルキを一瞥すると、ふーんとだけ呟いてそっとその首から両手を離した。どさっとミルキが尻餅をつく。 「ぐえっ…げほっ、げほっ…はぁ…」 「良かった。実の弟を殺さなきゃいけないのかと思った」 そう悪びれる様子もなくイルミは言った。その言葉にわたしも、それ以上にミルキも背筋が凍りそうだった。イルミならやりかねないと。イルミは携帯を開くと執事室に電話をかけ始めた。どうやら破壊したミルキの部屋の後処理と修復を依頼している。その間にようやく落ち着いたミルキがわたしの隣に立つと「あれ…本気で殺る気だったぞ」と小声で言った。わたしは「まさか…」と返したけど「はイル兄のことなんもわかってねえ!」と一喝されてしまった。そんなわたしたちに気付いたイルミがじっとミルキを見据える。 「ひ…」と怯えた様子でミルキは部屋を出て行ってしまった。 「もう…イル。そんなことしたらミルキが」 「オレは何も?それより、これあげるよ」 そう言って右手に渡されたのは。 「…これ、さっき言ってたピアス…どうしたの?」 「どうしたって…可愛いって言ってたじゃない」 「……わたしの話、聞いてなかったんじゃないの?」 「聞いてたよ。いつも聞いてるよ、の話」 思わず零れた涙。イルミからのサプライズにわたしは思いきり抱きついてしまう。イルミは簡単に受け止めて、綺麗な指でわたしの頭を撫でてくれる。は泣き虫だね。言いながら何度も何度も。 「泣いてばかりの弱虫は大嫌いだけど、ならオレが守るから許すよ」 嘘みたいなI Love you. 大好きだとか愛してるなんて言われなくてもいいの。わたしの気持ちをあなたがいつまでもわかってくれるなら。 |