自分の意志とはいえ、仕事にかまけてもロクなことがない。座り心地が良くて選んだはずの椅子も、慣れてしまえばその有難味さえわからなくなるし、いつ誰にプレゼントされたかも忘れてしまった万年筆の書き易ささえ、存在意義としては他の筆記具となんら変わらない。良い案件も悪い案件も、溢れた書類の中では目を通すスピードは同じことだ。研ぎ澄まされていた感受性が、どんどんどんどん削られて、失われる。
 こういうとき人は元通りの感覚を取り戻したくて、趣味だったり、大切な人との時間だったり、スポーツで汗を流したりするんだろう。人生における仕事の位置を履き違えてはいけないと気付き、満足する。なんて滑稽で単純なんだと、以前のボクなら見下して蔑すむ代わりに、笑顔と賛辞を送っていた。
 それがなぜだろう、残念ながら今は、そんなくだらない気持ちが多少わかってしまう。

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 重症だな、なんて考えるよりも早く足が向かったのは、一ヶ月ぶりの、とある事務員のデスク。当たり前だがボクの席でもないし、ましてや決まった用事があるわけでもなかった。栄養補給。そんな言葉がしっくりくる。
 ふと、さすがに何も持って行かないことに気が引けて、そばにあった休憩所の自販機で飲み物を2つ買った。一つはボクのブラックコーヒー。もう一つはほとんどミルクに近い甘めのコーヒー。毎回のように渡すのに、毎回のように突っぱねようとする、そんな彼女の分。お代を払いますと、生真面目で律儀で、ボクにさえ誰と変わらない扱いをするそのやりとりから、気付けば抜け出せなくなっていた。にも関わらず、怒涛の忙しさのおかげでしばらく赴くことができなかった。こんなにも自分自身の立場を恨んだことはない。ボクを副会長に任命したネテロ会長への恨み。それから、手の中に2つの温もりを感じながら、久しぶりに一般のフロアへ足を運んだ。
 協会本部のビル内に複数ある部署は、それぞれの特色や異なる男女比のせいか、雰囲気が全く違う。ボクが訪れたここは、比較的大人しい色合いの静かな部署だ。女性社員は少なく、男性社員が多い。みんな黙々淡々と業務をこなし、けれどばらつきを感じるわけでもない。今はまだ業務開始前なので、人はまばらで尚のことしんとしていた。
 「あ」
 目が合うなりそう呟いたのは、ボクでもなく、意中の事務員でもない。隣の席に座る彼女の同僚らしい男だった。おはようございます、と彼女に向けるはずだった言葉は喉の奥へと消えていく。代わりに笑顔を向けると、彼は少しばかり顔を引き攣らせたが、すぐに隣のデスクに視線を向けた。
 「さんなら、ここ最近、出社時間遅くなりましたよ」
 彼女のことをさんと呼んでいるのか、この男は。彼の言葉よりもまずそんな考えが及ぶ。そうですかと答えると、彼はまだ何かを言いたそうにもじもじしている。なんて気味の悪い。朝から目的の人物以外と話すこと自体苦痛なのに。手の中で2つの缶コーヒーが行き場をなくしている。いない彼女の席に置いておくのもいいけど、あのやりとりが無い以上、無駄なことだった。冷めた缶コーヒーなど嫌がらせにも程がある。今日もこの後は業務が立て込んでいるし、会うことはできないだろうな。渡せないことが確定となった缶コーヒーを見つめながら小さくため息を吐いた。その場を離れようとすると、隣の席で意を決するように彼が再び口を開いた。

 「えっと…さん、なんか色々あるみたいなんです…話聞いてやって下さいね副会長」

 嗚呼、目障りだなぁ。閉じた瞼の裏がちかちかしている。頭の中はくらくらだ。一ヶ月前まで、彼はもっと気の利く男だと思っていた。ボクがさんの席に来れば必ずと言っていいほど席を立ったし、業務が始まれば静かに席に戻っていたのを何度も見ている。利口だな、賢明だなと本心で思っていた。それがこの一ヶ月で、ボクにこんな口をきくどころか、どの立場から物を言うようになったんだろう。さんの出社時間といい、彼の言動といい、一ヶ月で人も環境もこんなに変わるのか。やっぱり、仕事にかまけていいことなんて無いのだと痛感する。
 彼が、オレが今言ったことは内緒にしてくださいね!と、人差し指を顔の前で立てたのをキッカケに、ではとだけ答えてその場を後にした。こんなたかが社員の男に、妙な仲間意識を持たれるのは御免だ。


 彼女に会えなかった苛立ちと、あの馴れ馴れしい男への腹立たしさを携えながら部署を出ると、すれ違う度に社員たちが一瞬目を見開いた。ボクを見て固まったまま挨拶を述べる者、好奇の笑みを向ける者、一礼する者、そそくさと自分の席へと戻る者。わーわーぎゃあぎゃあ朝から喧しいそれら全てに平等に挨拶を返していく。副会長の立場であるボクがこのフロアにいることが珍しいことくらいわかっている。けれども、一ヶ月前まではだいぶ周りも慣れていたはずなのに。やはり、一ヶ月の罪は重いな。そう思った時だった。

 「あ、わっ…」
 「すみません。怪我は―」

 女子トイレから出てきた誰かとぶつかる。よろけた相手の腕を掴むと、細いなと思うより早くその匂いが脳内に広がっていった。始業3分前。紛れもなく意中の彼女だった。

 「…おはようございます、さん」

 一ヶ月ぶりの栄養補給。そのまま抱き締めてしまいそうで大変だった。片手でバッグを抱き締める彼女に、極力前と変わらない挨拶をかけてみる。降りかかった声にビクッと反応しながら、恐る恐る顔を上げていく。そうだ、あの嫌がるような、けれど恥ずかしそうな表情を向けてきたらいい。久しぶりのこの反応に、思わず自然と笑みが浮かんだ。それなのに。

 「……離してください」

 一瞬耳を疑ってしまう。離してください。その言葉ではなく、その声に含まれたボクに向けられた感情に。
 「さん?」
 少しやつれた気がする彼女の名前をもう一度呼ぶと、俯いて視線を逸らす。その嫌がり方が前とは幾分違うことを察知するのは、蟻を踏み潰すよりも簡単だった。離して。そう短く言い切ると、彼女から腕を振りほどく。彼女の腕を掴んでいたボクの手が空しく残る。すぐに引っ込めたけど、一ヶ月ぶりに会うさんの様子にただただ唖然としてしまう。彼女は小さく一礼すると、目も合わせないままに走り去ってしまった。
 もしかしてボクが一ヶ月キミの席に行かなかったのが寂しかったんですか?そんな軽口を言える雰囲気ではない。そしてそれが見当違いであることは彼女を見れば一目瞭然だ。ボクは引き止めるどころか、片手に持った缶コーヒーを渡すことさえできなかった。

 さん、なんか色々あるみたいなんです…聞いてやって下さいね副会長―

 ボクが来ない間に、一体何が起こったのだろう。頭の中では、彼の声が響いていた。




 「どうしてこれを間違えるんですかねえ」
 副会長室の受話器のコードをくるくると、まるで髪の毛のように弄びながら微笑んでみる。電話口でそう告げると、指摘された部下の縮こまる音が聞こえたような気がした。申し訳ありません。直ちに訂正致します。ありきたりな謝罪の言葉を並べる。君なら今日中にできるはずですよとたっぷりと嫌味を投げかけて、内線を切った。ただでさえ忙しいのに、こんな初歩的なミスをされては頭を抱えてしまう。いつもなら誰かに指摘をさせるようなことも、今日に限っては苛立ちが増して、自ら言葉をかけないと気が済まなかった。書類へのサインも自然と字が乱暴になる。
 これまでの忙しさに加えて、今朝の彼との苦痛なやり取り。貰い手を失った缶コーヒー。そして、さんの心底嫌そうなあの声音。一体ボクが何をしたというんだ。問いたいけれど、どこに吐き出せばいいのかさえわからない。
 腕時計に目をやれば、もうすでにお昼の時間を知らせようとしていた。だが、こんな気分の悪い日に空腹になるほどボクの神経は図太くはない。あまり使わない左側の袖机の引き出しから葉巻を取り出すと、普段は吸わないそれを猛烈に吸いたくなってくる。この空間にいることさえ嫌になってきて、ボクは珍しく喫煙ルームへと足を向けることにした。
 後になって思えば、その時の行動はいずれファインプレーに繋がるわけだけど。

 「お疲れさまでーす」
 喫煙ルームの扉が開くなり、強い匂いと煙に覆われる。普段煙草なんか吸わないボクには、久しぶりの喫煙ルームは毒みたいな場所だった。そこそこの人数がいたけど、誰もボクの方を見てはいない。扉の開く音に反応して、それぞれ適当にお疲れさまと声をかけているようだ。ある者は一人でスマホをいじり、ある者は誰かと雑談をし、ある者は用事を済ませて帰っていく。こんな時くらい静かに葉巻をくわえたかったボクにとって、ちょうどいい空間でもあった。火を付けて、じっくりと嗜む。口寂しさが無くなっていくのを、目を瞑り噛み締めた。

 「な、今日もまた酷かったよな」

 不意に、男性社員の話し声が耳に入った。声の聞こえた方をちらりと片目で盗み見る。濃紺のスーツを着たどこにでもいるような男だ。困ったような笑みを浮かべて、もう一人の男性社員と話し始める。
 「一体何週間続くんだよ」
 「さぁな。女の恨みは底無しなんだろ…こわ」
 「誰もいないとき声かけたらさ、ありがとうございますって泣きそうな顔で言われちゃって…」
 2人の男性社員たちは、はぁと大げさにため息と煙を吐いた。想像つくなーとか、かわいいヤツも苦労すんだななどと言葉を並べている。どうやら社内でリアルタイムで起きた出来事を話しているらしい。ボクには関係はないだろう。けれど、情報収集がてら何気なくその会話が気になって聞き耳を立て続けていた。

 「もうオレ可哀想で見てらんねーよ…」
 「オレも…。だって退職願出したんだろ?さん」

 ガツンと。思いきり頭を壁に打ち付けられたのかと思った。思わず咽そうになって、2人を凝視してしまう。背中を向けている彼らの位置からはボクを確認することはできない様子だった。 。そのファミリーネームは、協会内で彼女しかいない。なぜ彼らの口から、さんの名前が出るんだ。退職願?誰が。まさか、さんが?
 いや、それよりも。彼女の身に一体何が起きているんだろう。今の彼らの話を推測する限り、それが良い話ではないことは火を見るより明らかだ。業務でミスをしたんだろうか。多忙さにやられた?変な虫に追われいる―考えかけて、黒い感情が押し寄せそうになるのを必死で堪える。そんなことが起きているなら、ボクはその虫を殺さなければならない。現に、話し込む2人の男性社員の口から、彼女の名前が出るだけで許せない。そんなボクの存在に気付かないまま、2人は煙草の火を消しながら会話を続けた。

 「パリストン親衛隊、恐るべし」
 「あのー」

 さんの次に、とうとうボクの名まで登場してしまった。思わず2人の背中に声をかける。ボクの親衛隊がなんだって?
 同時に振り返ってボクの顔を見るなり、男性社員たちの顔がみるみる青褪めていくのがわかった。怯えているその顔に優越感を覚えるよりも、一刻も早く真相を知りたかった。この一ヶ月で起きた、さんの周囲の出来事。

 「詳しい話、お聞かせ願えませんか?」

 ふ、副会長!と声を震わせながら呟く2人に極力笑顔を取り繕ったけど、殺気立ったオーラを全て隠しきることは困難だった。殺したりはしないよ、今はまだ。全てを話すのが、捕らわれた子羊の役目。




(2017/11/12)