そっと右の頬を包む手が温かい。うっとりして寄り添うと、愛おしそうに撫でてくれた。それが すぐに夢だとわかったのは寂しかったけど、あぁわたしもいつかきっと素敵な人を見つけて、こんな風に支え合い生きていくんだと思ったら、これが例え夢でも 悪い気はしなかった。誰かの手が自分の為だけに熱を感じさせてくれる。そうしてわたしも、まだ見ぬ誰かの為に幸せを見つける 努力をする。
 ゆっくりと目を開けて描かれた未来の想い人を確かめた。1、2の3で広がる視界。映ったのは、胡散臭い目元。パで始まる似非野郎。

Recipes to love

 「ぎゃあっ!」
 瞬間、ベットから飛び起きる。驚きで固まったまま数回瞬きをした。見渡した空間が見慣れた自分の部屋であることを確認すると、背中には 悪夢を見たかの如く大量の汗をかいていた。勢いよく身体を起こした反動でじんわりと腰が痛い。一度深呼吸して気持ちを落ち着かせると、不意に 目に入った時計が朝の8時を知らせていた。
 「な、なんだ…まだ8……8時!?」
 もう一度時計を確認すると、残酷な二本の針の位置に目を見開く。目覚めのいい朝とは言い難く、風が起こりそうなほどの速さでベッドから降りる。まずい。遅刻の二文字が射程圏内に突入している。わたしは 急いで顔を洗い、さっきかいた汗をタオルで拭き取る。それからメイクのために洗面台の前に5分だけ立つ。メイクと言ってもファンデーションを塗り眉毛を描くだけの簡易なものだ。社会人として 必要最低限中の最低限。髪型はサイドダウンにざっと手ぐしでまとめる。焦りがあって途中ヘアセット用のクリームキャップが上手く 外れなかった。取り急ぎ全体をチェックして、歯だけはきちんと磨き、使用したタオルもそのままに洗面所を出た。
 部屋に戻るとクローゼットを大げさに開いた。昨夜、フリルのブラウスにアイロンをかけていた自分を褒めてあげたい。けれど、そんな余裕も勿論なく、ブラウスとフレアスカートに着替えると、ストッキングだけは 慎重に、伝線しないように履き上げる。ちらりと見た時計の針はさっきより10分進んでいる。程無くして、なんとか朝の通勤スタイルを身に纏えたわたしは大急ぎで部屋を出て、職場であるハンター協会本部ビルまで走った。


 「夢のせいで…」
 部署について机に座るなりそう呟いた。始業時間15分前。意外に間に合うものだ。隣の席の同僚の男の子に「え?」と聞き返されたけど、笑顔で 何でもないよと伝える。24年生きてきて、今朝初めて自分の悲鳴で目が覚めた。友人がよく自分の笑い声で起きると言っていた。夢の中で 美味しい物を食べたり、大好きな芸能人と突飛出た展開を繰り広げて、ついにんまりしてしまうんだと。それも幾分虚しい気も するけど、幸せの中目を覚ますのだから悲鳴よりはマシだろう。ぜえぜえと荒ぶ息を整えながら、パソコンの電源ボタンを押す。起動するまでの時間で 机に突っ伏すと、自分の上に影ができるのが分かった。
 「おはようございます、さん」
 「げっ!」
 パソコンがログイン画面でパスワードの入力を促すと同時にゆっくりと顔を上げると、視界に映った人物にそんな声が出た。でも無理もない。そこにいたのは諸悪の根源であるパで始まりンで終わる、胡散臭い目元が特徴的な渦中の人物。今日も憎たらしいくらいの似非笑顔を引き連れて、優雅なスーツを着こなしている。手には缶コーヒーを二本、一本はわたしの机にコンと音を立てて置かれた。

 「女性にそんな挨拶を返されるのは初めてです」
 「お、おはようございます。みんながみんなパリストンさんに媚びへつらうわけじゃないんで」

 わたしの言葉に、パリストンさんは大層嬉しそうにくっと笑みを深めた。その様子にわたしの方が肩を竦めてしまう。わたしたちのやり取りに、また今日も始まったかと、隣の席の同僚がそそくさと席を立った。わざとらしいくらいの量の資料を持って、コピー室へと逃げ込む彼を目で追う。どうして逃げるんだ薄情者め。そんな同僚の行動を、何を考えているのか全く読めない顔で見つめた後、パリストンさんは「彼は利口だなぁ」と小さく呟いた。
 「はい?」
 「いえ、こちらの話です。それにしても珍しいですね。キミが始業間際に来るなんて」
 いつも一時間前には席についてるのに。言いながら缶コーヒーのプルタブに手をかけると、フタが開く時特有の水気を含んだ音が響いた。指先の、先の先まで行き届いているかのようなしなやかな神経を思うままに動かす。そうしてコーヒーに口をつける様は、さながらテレビの中の人間同様の美しさだ。喋らなければいいのにと、もう何度思ったことだろう。まぁ、言葉を発しないであの笑みを浮かべられても困るけど。
 「…あなたのせいですよ」
 「え?」
 「あ、いえ何でもないです!コーヒー代払います」
 思わず心の声が出てしまっていた。慌ててバックからお財布を取り出しながら平静を保とうとする。けれど、腕を掴まれて制止させられた。夢の中で、わたしの頬に触れていた手だ。わたしの隣に立ったままのパリストンさんを見上げると、彼に自然見下されながらにっこりと微笑まれた。こ、怖い。彼がこういう表情の時は、自信に満ちた棘のナイフで人の心を抉ろうとしている時だ。最近は、笑顔の中にある喜怒哀楽にさえ気付けるようになってしまった。

 「代金は不要です。謙虚さは時に刃物ですよ」
 「だって、御馳走していただく理由が見つかりません」
 「キミは他人の好意全て突っぱねて生きていくんですか?それはボクからの差し入れですから」
 「は、はぁ…でも、」
 「そんなことより、キミが遅れた理由を教えて頂ける方が嬉しいのですが」

 聞き逃してくれたと思っていたのに、どうやらそうじゃなかったらしい。驚いて目を見開く。掴まれてひしゃげたままの腕をぱっと離されて「い、いやっあの…それは……」と口ごもる。パリストンさんの眉間にしわが刻まれた。

 「何故ボクのせいなのか教えて頂けませんか?」

 ちょっとだけ縋るような目で、懇願するような声で。ずるいと思う。いつものふざけた表情をすぐに真面目な面持ちに変えてしまう。絶対にわかっていてやってるんだろう。自分の容姿とか立ち位置とか他人にどう見られているかとか。だからこんな真似ができてしまう。女性社員にファンがいるのも頷ける話だ。わたしは頑なに存在を拒み続けているけど。

 「な、なんでもありません!本当に」
 「でもさっき、夢がどうとかって言ってましたよね」

 そんなところから聞かれていたのかと軽く絶望する。対照的に、パリストンさんはわざとらしく首を傾げてわたしを見つめていた。生殺しみたいな、手のひらで転がされているような感覚。頬が熱を帯びていくのがわかって、赤い顔のまま俯く。あんな夢を見なければよかった。夢の中の優しさが、目の前にいるこの男じゃなければなんら問題はなかったのに。
 本当に不思議な人だった。わたしよりも遥かに上の地位にいながら、何故だかわたしにちょっかいをかけてくる。冷たくあしらっても興味がないと困惑しても、常に楽しんでいる様子だった。キミのことがとっても気になってしまうんですよ、とか、気持ちが伝わるまで負けませんよ、と冗談めかした口調でいつも笑っている。かと思えば、裏できちんとネテロ会長の障害となることにも時間を惜しまない。良く言えば、自分の欲望に素直な人だった。
 でもわたしが相手にしたいかと言えば話は別だ。迷惑だし、何より周りからの視線も辛い。そんなわたしの気持ちを知った上で行動しているのだから、なおさら性格とタチの悪い男だった。出来れば関わり合いたくないと思うのが普通だろう。
 「さん」
 「……はい」
 「このままダンマリが通用すると思う馬鹿なキミじゃありませんよねえ」
 「…………」
 それなのに。どうしてこんな男の夢なんか見てしまうんだろう。パリストンさんはいつも皮膚を傷つけず骨に響かせるような脅し方をする。見つかって囚われたが最後、観念するより他にない。現実でこんな目に遭うんだからか、せめて夢くらいはわたしの思い通りに描かれてもいいのに。
 いつまでも黙ったままのわたしに痺れを切らしたのか、それとも満足して飽きたのかはわからない。不意にパリストンさんは咳払いをすると、これはあくまで憶測ですがと付け足してわたしを見据えた。

 「その夢って、ボクの夢だったんじゃないですか」

 抉られたり、引っ掻かれたり、わたしの心は忙しい。勘違いだったらすみませんと調子のいい困ったような顔を向けられて、わたしはいよいよ逃げ場をなくしたリス状態だ。覆い茂る木々の中に用心深く身を潜めても、いとも簡単に捕まってしまう孤独なリスだ。仲間はいない。後ろ盾もない。与えられた胡桃を割って食べる選択肢以外、どこにも逃げ場はない。ぐっとたじろいだその一瞬を、パリストンさんが見逃すはずもなかった。いやに綺麗に口角を上げて、あとは追い詰める為にナイフを翳すだけだ。つついてもいいし、刺してもいい。匙加減は彼が握っている。

 「へえ。それで、どんな夢だったんです?」
 「……素敵な夢でしたよ。温かくて、やさしくて」
 「抽象的ですね。もっと具体的にお願いします」
 「あ、あの、すみません!もう、仕事も始まりますし、本当にこれで…」
 「ボクの質問に答えて下さい」

 ぴしゃりと遮られて、喉の奥に言葉が引っ込む。驚きと絶望と羞恥で彼を見上げると、パリストンさんは笑顔を崩すことなくわたしを見下ろしている。真一文字に結んだ唇が震えて、思わず涙が出た。自分でも何が起きたのかわからなくて、気付いた時にはパリストンさんの左手がわたしの頬を包んでいる。これじゃあ、まるで。

 「…これ、まだ夢ですか…」
 「こんな夢を見たんですか?」

 ボクに触れられる夢。改めて言葉にされるとなんて恥ずかしいんだろう。やめてほしい。いい加減手を離して職務に戻ってほしい。でも、パリストンさんの左手はわたしの頬を包んだままだ。満足そうな表情と一緒に「知ってますか?夢は潜在意識なんですよ」とまでのたまっている。意地の悪い態度とは裏腹に温かくて大きな手だった。わたしは、目の前の現実を受け入れたくなくて、ばっちりアイメイクを決めてこなくてよかったと全く別の事で頭の中をいっぱいにする。マスカラなんてつけていた日には、ドロドロしい涙で酷い顔になっていただろう。遅刻寸前で良かったと、それだけはあの夢に感謝しながら。でもそれは決して、目の前の男に対する感謝なんかじゃない。

 「い、いつまで触ってるんですか!離して下さい!セクハラで訴えますよ!」
 「やだなぁ。ボクはさんの見た夢の再現をしているだけですよ」
 「ちっ、ちがいますから!こんな夢見てません!パリストンさんなんかじゃありませんから!」

 わたしの一言に、ぴくっと彼の手が動く。ゆっくりと頬から離れた手を確認して胸を撫で下ろす。けれど、彼の顔がさっきまでとは打って変わって暗い影を背負っているのがわかった。冷たい視線。全身全霊で警戒する。

 「ボクじゃないとするなら、それはそれで大問題だな」
 「…は?」
 「相手は誰でしたか?」
 「あ、相手?」
 「夢の相手ですよ。ボクの許可なく他の男の夢を見るキミ以上に、ボクはその相手が許せない」

 もしかして、隣の彼じゃありませんよね。独り言なのかわたしに尋ねているのか曖昧な音量でそう呟くと、パリストンさんはコピー室に逃げて行った先程の同僚の席を見つめた。何かよからぬことを考えてるに違いない。でも、大きく否定するのも肯定するのも、どちらにしろパリストンさんの思う壺だった。息を飲み、頭の中で最良の言葉を探し続けた。
 きっと次の一言が、わたしの今後の人生を大きく左右するだろう。






(パリストンファンの方々の熱いメッセージに胸打たれました!リクエストありがとうございます。2012/11/11)