習性まで会得したらしい。痛みが走ると思う前にそんなことが過ぎった。またか、とも思った。次の瞬間にはわたしはしゃがみ込んで肩口を押さえる。目の前の加害者はやってしまったという顔できっと今、目を見開いているだろう。
女の子がどうされると嬉しいだとか、何をされたら嫌なんだとか、そういうことを考える力が致命的に欠落してる。前に一度聞いてみたことがある。女の子がされて喜ぶことって何か知ってる?その答えに「それを知って強くなれるなら教えろ」と彼は言った。そこで悟った。カンザイは肉体的な強さだけを求めてるんだと。


「痛っ……」
!」
「な、なんで…あんたは…っ」
「だ、大丈夫か?」
「いつも…っ」
「やべっ、血が」
「いつも…っ、わたしを噛むのよ!!!」


少し声を張り上げたら、頭がクラクラした。肩から流れる微量とは言い難い出血のせいだろう。ただでさえ貧血気味のわたしから、これ以上何も奪わないで欲しい。できることなら痛みも出血も無いじゃれ合いを望む。しゃがむ体勢にさえ足が疲れてきて、協会前の往来にも関わらずその場に座り込んだ。カンザイも視線を合わせるようにしゃがみ込むと、申し訳なさそうにわたしの顔を覗き込む。それからすぐに自分の服の袖を破り、慣れた手つきで流血するわたしの肩口にそっと巻き始めた。


「痛むか?」
「痛む。超痛む」
「こんなに肩出してっから、てっきり噛んでくれってサインかと思ってよ」
「…肩が出てれば噛んでいいと思うその思考は何」
「だってオレ寅だし」
「だっての意味がわかりません」
「オレなりのスキンシップ?」
「じゃあ何よ、クルックちゃんやピヨンちゃんの肩も噛むの?噛まないでしょ」


わたしの一言に応急処置をしていたカンザイの手がぴたりと止まる。「確かに…」と深く納得する彼に、わたしはため息を吐いた。肩が出てれば誰彼構わず噛むわけじゃない自分に言われて初めて気付くなんて。わたしと違ってクルックちゃんやピヨンちゃんのようなプロのハンターに噛み付けば、いくらカンザイでも無傷で済むわけもないけど。だからってわたしに奇襲の如く噛み付くのはいい加減やめてほしい。病院に行くたびに理由を問われて恥ずかしい思いをするわたしの身にもなってみろ。言葉にすることはなかったけど、顔には出ていたと思う。


「てぇことはよ、オレはだと噛みたくなるらしい」
「らしいって何よ、らしいって。現に噛んでるのに」
「クルックやピヨンなんか微塵も噛みたいと思わねえ」
「…わたしにも微塵も思わないでよ。どっかのガムのCMじゃあるまいし…」
「いや無理だ!だと条件反射の如く、こう…」
「だからっ!そのたび血を流すわたしの身にもなってよ!加減ってものがあるでしょ!」
「大体、夜だと喜ぶくせに何で昼だと噛んじゃいけねえんだよ!」


荒げた声に道行く人々がこちらを見つめながら通り過ぎてゆく。振り返る人もいた。内容が内容だけに居た堪れない視線が突き刺さる。恥ずかしすぎて穴があったら入りたかった。どっと力が抜けていく。多分耳まで真っ赤だろう。口をパクパク金魚みたいに開閉させるわたしに構うことなく、手当てする洋服の切れ端ごと引っ張るものだから、肩には再び痛みが走った。血も少し滲んでいる。さっきから頭の中に、もう、とか、だから、とかそんな言葉が音にならないまま押したり引いたりを繰り返している。いよいよだるさを覚えて、目の前のカンザイの胸に倒れこむ。それを簡単に受け止めながら、この空間に訪れた沈黙を破いたのはカンザイのわざとらしい咳払いだった。反省してる様子はない。聞こえる鼓動が物語っている。むしろちょっとしてやったりといった心音。


「なぁ、とりあえず医務室行こうぜ」
「…一人で行く。離して」
「あぁ?こんな状態で行けるわけねえだろ。オレが連れてってやる」
「いい。医務室のベットで押し倒されたら遅刻しちゃうから」
「…なにお前、エスパー?」


心読めんの?カンザイが心底驚いたような顔をする。適当に返した言葉が当たっていたなんて…驚きたいのはわたしの方だ。カンザイの何が好きなんだろう。ついにはそんな考えまで及んだけど、考えれば考えるほど深みに嵌ってしまう。だってわたしは彼のいいところを沢山知っているし、その幾つもを目の前で突きつけられたからこそ今がある。噛み癖を治してほしいのは本音だけど、その行為だけで彼を嫌うにはあまりに惜しい。目に見えた後悔はしたくない。風邪を引けば一番に心配してくれるのも、嬉しいことがあったとき一番にその報告を聞いてくるのも、何度も挫けるダイエットに付き合ってくれるのも、全部ぜんぶ彼なんだ。


「な、なんだよ?」
「別に」
「気持ちわりーな、なんかあんなら言えよ!」
「だから、ないってば。何も」
「わかったぜ、本当は噛まれて嬉しかったんだろ?」
「どの口が言うわけ?」


筋張ったカンザイの細身の腕に支えられながら立ち上がる。まだ減らず口を叩くから少しよろけてしまった。でもそれさえカンザイは片手で支えてくれた。あれはいつだったか、二人の関係に杞憂したわたしがネテロ会長に相談を持ちかけたときもそうだった。ネテロ会長の提案でカンザイを試すことになった。カンザイが部屋に入ってくるタイミングで会長に押し倒されたとき、彼は「ジジイでも容赦しねえ」とだけ呟いて、数時間にも及ぶ激闘の末、手が付けられなかったことがある。そんなカンザイを目の当たりにしたわたしに、ネテロ会長は悪戯に余裕綽々とウインクしていたっけ。そこまで思い出しながら、この感覚はもしや走馬灯と呼ぶんじゃないだろうかと考える。死ぬのか、わたし。死因が恋人に肩を噛まれての出血多量なんて、いくらなんでも笑いものだ。


「おい!?」
「なんか、力、入んな…」
っ!おら掴まれ、医務室行くぞ!」


さすがのカンザイもこんな状況のわたしを押し倒したりはしないだろう。俗に言うお姫様抱っこをされながら、安心して彼の首元につかまった。こういうところは本当に頼れる男の人なのに。この温かさが大好きなのに。やっぱりわたしが痛みに耐えていくしかないんだろうか。傷口に響かない、一番早いペースで風を切るカンザイ。その横顔を見上げるように見つめていると、視線に気付いたカンザイがわたしを一瞥してから再び前を向く。


「なぁ、聞こえてっか」
「な、に…」
「昼はダメでも、夜は噛んでもいいよな」


疑問系じゃないなら尋ねる意味なんてないことを彼に教えたほうがいいだろうか。ここまでくるとさすがにすごい。彼のわたしに対する噛むことへのこだわり。執着?わたしってもしかしておいしそうとか思われてるのかも。わたしのカンザイに対する好きは恋だ。でも、カンザイのわたしに対する好きは食べ物とか本とかそういう類の好きなのかな。わからない。これは今度ゆっくり本人に追求しよう。それにしても、ネテロ会長も酷な人だ。カンザイに寅のポジションを与えてしまったのがそもそものキッカケなわけで。会長に心酔する彼が馴染む努力を惜しまないわけが無い。けれど、近くでそんな姿を見せられて惚れてしまったわたしも相当なものだ。全てはネテロ会長の仕組んだ通りだったらどうしよう。今さらそんなことを思ってみてももう遅い。わたしはその罠に何より感謝して生きていく。そのために隣にはいつも、縞々の寅模様が必要不可欠だ。







いとしい牙のゆくえ  2012/06/18