Peppermint Waltz.



モダンなジャズが一層雰囲気を作る。仄暗い店内にはわたしの他にカウンターに一人、離れたところに二人、テーブル席に三組お客さんがいた。
週末ということもあって普段より賑わしい。それぞれが好きな時間を過ごす中で、わたしも構うことなくグラス片手にマスターを一人占めしていた。

「そうか、また振られちゃったわけか」
「そうです、また振られちゃったわけです」

マスターからのパスに繰り返すように答えた。
わかりきったことなのに改めて言葉にすると切なくて、ごまかすようにファジーネーブルを一気飲みする。縁に飾られたオレンジも残さず食べて、べたつく指をおしぼりで拭いた。
さっきまで存在したはずの綺麗なグラデーションの色合いはもうない。
なんだか、今のわたしみたいだなんて柄にも無くロマンチックなことを考える。カウンターに突っ伏して空になったグラスを見つめると、スーツが簡単によれた。そんなわたしにマスターが苦笑する。


「どうしてわたしって、自分から好きになった人はダメなんだろう」
「でも、ちゃんといいところまでいくじゃない。もう一押しなんじゃない?」
「行動力の問題なのかな…それならいいけど、もっと根本的な問題だったらどうしよう…」
「根本的?例えば?」
「性格とか外見とか…綺麗なわけじゃないし、特別スタイルがいいわけでもないから」
「そんなことないがなぁ。ちゃんは今のままで充分可愛いさ。自分を卑下したらダメだよ」
「ちがうのよう…どうせダメなのよう…いつも、いーーーっつも!」


投げやりに呟くと、マスターがまぁまぁと宥めてくれる。空いたグラスに目配せをするから、わたしは一呼吸置いてから「ミント・ジュレップ!」と半ばやけになって注文した。
本当にたちが悪い。でも、今日だけはお酒の力を借りていたい。
わたしの心情を汲んだマスターがにこりと笑う。


「お、ちゃんジュレップなんてよく知ってるね。頼むの初めてじゃない?」
「ふふ。今日は飲むぞ!って決めて来たからね、お昼休みに会社のパソコンで調べたの」
「なるほど。カクテル一覧をね」
「そう。カクテル一覧を。沢山あるんですね、カクテルって」
「そうだね。カクテルも殿方も、それこそ星の数ほどね」
「あ、それって慰めですか?マスター」


わたしの問いかけに、バースプーンでペパーミントを潰して香り出しをするマスターがウインクを返した。今時珍しい、綺麗に整ったコールマン型の髭がとてもよく似合う。紅のベストがますますマスターらしさを演出している。やさしいなぁ。
そんなマスターが作るお酒は絶品だ。よく冷えたコリンズグラスに、ミントとお水と炭酸水が注がれていく。


「ベースはバーボンでいい?」
「え、他にもあるんですか?」
「うん。ラムを入れたらラム・ジュレップになるし、ブランデーを入れたらジョージア・ミント・ジュレップだよ。シャンパンにしても美味しいよ」
「へえ、すごい」
「色んな形で楽しめるのもお酒の醍醐味だよね」


恋もね。そう悪戯っぽく笑うマスターに、わたしはもう!とからかわれたことに頬を膨らます。
恋の傷を慰めにここへ来たのに。しばらくはこりごりとさえ思う。マスターは悪い悪いと言いながらも楽しそうだ。でも、その間にも手元のグラスにはなみなみ氷が入れられる。仕事もきっちりこなしながらこんなわたしの相手もしてくれて、本当は有難くて仕方がない。

「じゃあ、初めてなのでまずはバーボンでお願いします」
「了解」

バーボンのボトルを傾けると、マドラーでゆっくりとかき混ぜていく。
突っ伏していた体を起こして一連の動作を見つめているわたしに、さっきのお詫びと言いながら、最後に飾る若芽のミントにパウダーシュガーを振り掛けてくれた。まるで葉の上に粉雪が降りかかっているようで思わず「綺麗」と呟いてしまう。
マスターのこういう心遣いがわたしを常連にして離さないんだと強く思う。


「はい、お待たせ。マスター特製ミント・ジュレップです」
「わぁ、いただきます」
「かき混ぜるときはそっとね。お家で作るときはフルーツなんかも飾って」


素敵なレシピや雑学をほんの少し、嫌味なく添えるマスター。
コリンズグラスの中で小さく浮かぶ炭酸水の泡たち。しばらく見つめてから、いざ、とグラスに口つけた。ミントの香りが広がって、とても爽やかな味がする。気持ちがリフレッシュするお酒だ。

「おいしい!マスターってやっぱりすごいです!」
「そうかい?それはよかった」
「家に帰って真似して作ってみてもなんか…ち、ちが、」
「お」
「へっくし!」

言葉の途中で鼻がムズつくわたしに、マスターは微笑みながら「くしゃみが出るほど気に入った?」と言った。 その間にも二回続けてくしゃみを連発する。
すっかり忘れていた。わたしは、そうだ。

「マスター」
「うん?」
「わたし、ミントアレルギーだった」

「…ぶっ!!」

告げたと同時に、3つ隣の席から盛大に噴出す声が聞こえた。
驚いたわたしとマスターは視線を一度合わせてから、寸分狂わぬタイミングで横を向く。

「や、悪い。気にすんな」
「ジンさんかぁ」

ジンさん。マスターが言った。もしかしなくとも、わたしの3つ隣に座る彼のことだろう。お酒の方の名前じゃないと思う。
マスターの声音から、ジンさんもよくここへ来るお客さんなんだろうと推測できた。
ジンさんはカクテルグラスに入った透明のお酒を一口口に含む。わたしは気になって思わず声をかけていた。

「やっぱりジンさんだけにジントニック?」
「ぶっ!!!!」

ゲホゲホとむせながらカウンターに突っ伏すと、ジンさんは恨めしそうな顔でわたしを睨みつける。一応初対面なんだけどとつまらない考えが及ぶ。大きな瞳。つった眉とは対照的に少し眠たそうな目をしている。髭は髭でもマスターとは違う無精髭を生やしていた。
ゴホンと一度咳払いをしてから、ジンさんが口を開く。


「お前…親父ギャグにも程があるだろ」
ちゃん、あれはエックス・ワイ・ジーっていうカクテルだよ」
「えっくすわいじー?」
「ホワイトラムにホワイトキュラソー、フレッシュレモンジュースをシェークして作るんだ」
「へえ…初めて聞く名前です。何か意味があるんですか?」


わたしの質問にマスターが一瞬きょとんとした。けれどすぐに笑ってカウンター越しにジンさんに目配せする。その様子にジンさんは面倒くさそうに頭を掻いた。


「最後のカクテル」


迷いの無い声。真っ直ぐ見つめるその瞳にキャンドルの灯が揺れる。
音楽がちょうどジャズからボサノヴァに変わった。


「アルファベットって知ってるか?異国の文字だ。その最後がX・Y・Zっつー三文字なんだよ」
「つまり、これ以上のものが無い最高のカクテルって意味だよ」


マスターが付け加えて説明してくれる。
エックス、ワイ、ジー。異国の言葉を心の中で呟いた。そんな意味を持つカクテルを飲むジンさんが、とてつもなくすごい人のように思えた。きっとわたしの知らないものを、世界を、彼は幾度となく見てきたに違いないと、本当に、ただなんとなく思った。
申し訳ないような気もしたけど、これも何かの縁だと思って声をかけてみる。


「あの、ジンさんも、よかったら一緒に飲みませんか?」
「あ?何だよ、こんなオッサン口説こうってのか?」
「はは。ジンさん良かったじゃないか。女の子好きだろ」
「好きじゃねえ。大・好・き、だ」


その言い回しにわたしもマスターも声に出して笑った。なんて面白い人だろう。ジンさんは「女が嫌いな男なんかいねえ」とまで言っている。
言動は少し横暴だったけど、ジンさんはカクテルグラスを片手に席を詰めて隣に座ってくれた。
急に近付いた距離にトクンと鼓動が早まる。ジンさんはカウンターテーブルに肘をつき頭を置いてわたしを見つめる。腰掛けたスツールは同じ高さのはずなのに、少しだけ見下すような視線が突き刺さる。でも、嫌な感じはしなかった。


「大体よ、自分のアレルギー忘れて酒飲むやつがいるか?」
「それは…うーん、なんと言うか。マスターのお酒が美味しいのでつい」
「嬉しいこと言ってくれるねえ。あ、そうそうジンさん」
「あん?」
ちゃんがさぁ、失恋してこんなに可愛いのに自分を卑下するから。ジンさんからも言ってやってくれよ」
「ほお。なんだよ失恋くれえで」
「むう。失恋くらいとはなんですか!労わってくださいよー」


マスターが小皿にナッツを入れて差し出してくれた。
その様子を一瞥してからジンさんはカクテルグラスに視線を移す。何を思い出してるんだろう。そろそろ空になりそうな エックス・ワイ・ジー。むくれるわたしにジンさんが言った。


「まぁ、自分を卑下しなきゃなんねーような恋はロクでもねえよ。断言する」


突然降りかかったその言葉が、彼の今日までの生き様だとか経験だとかを物語っている気がしたのは、わたしの思い違いだろうか。こんなに真面目な答えが返ってくるなんて思わなかった。何も言えなくて、ミント・ジュレップの入ったコリンズ・グラスを呆然と見つめる。

片思いの彼のことを思い浮かべた。好きだったけどあまり感情を表に出す人ではなかった。
好きになってもらう為に どうしていいかわからないとき、わたしは自分を見つめては反省して、自分に原因を作ることで解決した気になっていたんだ。
確かにそれでは、例え両思いになれたって変わらない気がする。終わりが見える付き合いだ。
気が付くと涙が頬を伝っていた。哀しみとか悔しさじゃない、納得できたことへの安堵の涙。


「ジンさ〜ん…」


呆れたような、恨めしそうな声でマスターが言った。でも別にジンさんは悪くない。正面からの言葉に喉の奥が震えただけだ。急いでバックからハンカチを取り出して拭いた。でも、真面目だったジンさんも束の間、もう次の瞬間にはさっきまでの面白いジンさんに戻っていた。


「泣いてる暇はねえぞ?とっとと忘れて次にいけ次に!男はゴマンといるからな」
「そ、そうですね…っ、はいっ…ほんとに、そう…」
「ジンさん、ひょっとしてそのゴマンの中に自分も入れてないかい?」
「あ、バレた?」


マスター鋭いな!ジンさんがにやりと笑う。わたしもつられて笑った。
本当ならちょっと嬉しいと思ってしまったわたしの気持ちなんか知る由もなく、ジンさんが「笑うか泣くかどっちかにしろ!」と大げさに言ってみせる。


「仕方ねえ。マスター、こいつにスペシャル・ジン・ジュレップ作ってやってくれ」
「スペシャル・ジン・ジュレップ?」
「ミント・ジュレップのベースをジンにするんだよ」
「ジンもベースになるんですか?ジュレップって…」


わたしが尋ねる。マスターが頷いて、自分と同じ名前のお酒だからか、ジンさんはなんだか偉そうな顔をしている。
ミントアレルギーなのに二杯目を飲ませるつもりですか。そう可愛くない言葉でつつくと、ジンさんがさっきまで忘れてたくせにと言った。くそう…反論の持ち駒が少ないな、自分。


「わたしもエックス・ワイ・ジーがいいです!」
「おめえにはまだ早ェよ、


駄々をこねる子供みたいに両手でカウンターテーブルを叩く。もちろん限度は弁えたつもりだ。
その仕草にジンさんは満足そうに笑った。マスターも二人で話しているときよりさらに笑ってくれる。
どさくさに紛れて名前を呼ばれたことに気付いたのは、もう少し酔いが醒めてから。
でも、胸に芽生えたこの予感だけは、おそらく醒めそうにない。






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